松川鉱山跡 探検: 北の細道 松川鉱山跡

松川鉱山で青の遺響をみる



福島県福島市

 かつての山中の集落は農村と宿場町の機能を有していた。
そこに鉱山が発見されるに至り、新たに『三つの顔」をもつこととなる。
つまり農村から成り立つ宿場町が農業と都市機能のほかに
鉱産にかかわる分野を新たに担うことになるのだ。

それは米や農産物の他に坑木や燃料、鍛冶などの鉱山資料の供給、
さらに労働力や資金の調達、運搬などを含めた新たな需給が生まれることとなる。
もともと存在した行政や生活習慣などの「村の顔」に加えて、
往還道と街道の分岐点での宿泊や運輸などの「宿場町の顔」とを合わせて、
更に「鉱山の顔」を併せ持つ結果となる。


今回紹介の松川鉱山は岩手県町西和賀町の松川鉱山 と異なり、福島県の金鉱床である。

昭和13年当時、約400名の従業員を抱えていた松川鉱山は、
当時東北興業株式会社の経営であった。
文政年間(1818〜)に八丁目銀山として開坑した記録があるが、
鎌倉時代、中尊寺建立時期に稼行という説もある。

戦国時代に至る400年間の資料は皆無だが、
明治末から大正初期に再建、大正3年(1914)には約2,400tの出鉱の記録がある。
これは日立製作所に売鉱され、良質の鉱石は青金として売鉱されていた。

『青金(あおきん)』とは金と銀の合金で、銀を約20%程度含むものである。
この合金はわずかに青みを帯びた色合いを持ち、美術品や装身具などに使われてきた。
江戸時代中期には、金を節約する目的で小判に銀を多く混ぜるようになり青金が登場した。
たとえば、天保小判では金56%、銀42%という割合で作られた例もある。

昭和4年(1929)からは5か年の再開発計画が立てられ、探鉱、地質鉱床調査が施工された。
昭和8年(1933)産金法により製錬所建設の補助金が支給され、
昭和9年1月、1,500t/月処理の青化製錬工場が完成した。

今回の探索対象はこの青化製錬所であり、かつての姿は一般に下記の写真のような様相である
製錬所
某鉱山の青化製錬所

昭和14年(1939)からは東北興業が経営、16年(1941)には採掘中止、
鉱石は日立の製錬所に送られたが、昭和18年(1943)休山。
製錬施設も撤去されることとなる。

現代の地図には載らない場所がある。
そして、かつての地の奥深くに眠る金は、国家の夢を照らす灯火だった。
鉱脈を追った人々の足音が、今も山肌に残る青化製錬所。
化学と欲望と時間が交差した、静かな実験室。
金の輝きではなく、その影を見つめに行く探索をご覧いただこう。

金影・残響・鉱幽行路・・・



青化製錬所
青化製錬所





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