「拝啓,総理大臣さま」
赤平市は昭和29年(1954)に市制が引かれた、
空知川に沿う炭鉱都市だ。
人口はピーク時の昭和34年(1959)には58,713名、現在は15%の8,890名。
もと炭鉱付近にある豊里記念の丘公園だ。
芝生の自然公園にご覧の炭鉱夫のヘルメット型展望台がある。
しかし現在は運営されてないようだ。
街を見下ろす高台からアプローチする。
水中で泡を使用して選炭する浮遊選鉱に対し、
豊里炭鉱で行われていたのは重液サイクロン選炭である。
積込施設に到達だ。
重液、つまり比重がズリと精炭の間の液体を作り、
その液の中で浮き沈みを利用して選炭するのが重液選別だ。
側線の軌道があったらしくかなり大規模な積込施設だ。
(マウスon)重液選別は比重(2.5)のズリ(白)と比重(1.4)の精炭(黒)の中間比重の
重液(1.7)内でズリと精炭のより分けを行うのである。
ただしこれには沈むまで、そして浮き上がるまでの時間待ちが発生する。
マウスon 重液選別
高架型の水槽の様な遺構もある。
サイクロンというのは遠心力を利用した集塵装置の総称で、
円筒部から円錐部に流体が流れることで、
その回転速度の変化によって含まれる粒を選り分ける機構だ。
傾斜の付いた円錐部に重液と共に砕いた原炭を入れると、
自らの遠心力で粒や粉の分離が促進され、
沈降分離が加速的に進み、水槽での沈殿より効率化が図れるのである。
マウスon サイクロン
時期は変わって4月初旬の選炭場付近。
液体サイクロンが実際に使用されたのは1939年のオランダであり、
微粉炭の濃縮器として使用された。
昭和34年9月完成、今は劣化したコンクリート製の遺構がある。
重液サイクロンは主として沈殿に時間のかかる、
4㎜以下の微粉の分離に使用されるようになる。
重液とはマグネタイトやフェロシリコンの溶液で、
この重液とサイクロンに入った石炭粒は、
その回転作用で外壁に押し付けられる。
粒の重いものほど外壁に押し付けられる作用は強く、
小さいものは中心付近に滞留する。
外壁に押し付けられた粒は螺旋を描きつつ、下降後、下部ノズルから流出、
中心部の微細炭は上昇してオーバーフローする。
通常の重液選別時は分離の観点からできるだけ静止状態が望ましい。
粒の大きさも6㎜程度が限界でそれ以下は的確に分離しない。
しかしサイクロンの場合は最小0.5㎜まで対応できる。
頂方面には自然の地形には似つかわしくない直線がある。
これは恐らく輸車路、ズリ山頂上へズリを運炭する軌道跡のようだ。
痕跡を追って登ってみよう。
マウスon 輸車路
その尾根道は明らかに人工的な軌道跡であった。
閉山の前年、豊里小学校の一児童、香河菊枝さんが
当時の佐藤栄作首相に手紙を書いた。
「拝啓,総理大臣さま」に始まる閉山反対の手紙である。
札幌を訪れた当時の佐藤首相は、「確約は出来ないが当分は大丈夫です」との回答を
父親と列席する香河さんに伝えた。
ズリ山頂上に遺構は皆無で、あるのは展望のみだ。
しかしながら暫時を経て豊里炭鉱はヤマの歴史に幕を降すこととなり、
彼女の切実な願いはエネルギー革命の大きな波に呑まれることとなる。