汞-みずがね-のヤマ
留辺蕊町はアイヌ語の『ルペシュペ』(峠を越えた所)を語源とし、
中心集落は町域の東端に位置する。
周辺の木材が集散され、製材業が発展している。
街から大久保川に沿って登る。
市街地の標高は約200m、鉱山は250m付近、
地形図では大きな平場の奥の谷間に存在したようだ。
明るい林道を進む。
現在、世界でも水銀鉱山が残っている国は数えるほどしかない。
それは水銀が採掘以外の方法で産出しているからだ。
林道から外れて、鉱山跡に向かう作業道に入る。
縄文時代から水銀を採掘してきた日本でも、
1970年代にはすべての水銀鉱山が閉山した。
しばらく登ると不思議な平場が存在する。
おそらく付近が鉱山跡だが何もない。
鉱床図もないので、ここからは地形に従って探索する。
水銀は化学的な安定を求めて
「硫化物」硫黄とそれより陽性の元素との化合物
を作りやすい。
火山のマグマが上昇する際に、水銀は類似の元素同志と結びつき、
主に硫化物としての鉱脈を作る。
しばらく登り、付近を探索する。
銅・鉛・亜鉛そして金など水銀と類似の性質を持つ元素に、
水銀は含まれて産出してしまう。
それら類似の金属は
「親銅元素」地球の表面から深さ1200〜2900�qの硫化物に富む部分に集まったとされる元素
と呼ばれ、
硫化物を作りやすく、
融点や沸点が低い性質を持っている。
人工的な痕跡、ズリ山だ。
この鉱床が発見されたのは太平洋戦争(昭和16年(1941)〜昭和20年(1945))末期で、
当初は『大洋鉱山』と称された。
敗戦とともに出鉱も見ずに閉山、
再び保盛鉱山として昭和25年(1950)に従業員10名で採掘、
若干の鉱石を
イトムカ鉱山
に売鉱したが、26年末に再び休山したまま現在に至る
。
名もない小さな沢に遭遇、坑口を追う。
資料には深さ30mの樋押坑道とあるが、
富鉱部は10m、幅1.0mと非常に狭い範囲だ。
12月中旬の探索、沢は凍結している。
金属、そして石炭などに含まれている水銀はあくまで目的物ではなく不純物となる。
その品位や製錬コスト的にも厄介者となる場合がある。
残念ながら坑口の発見には至らない。
水銀は元素であり分解して無くなることはない。
つまり新たに水銀を採掘することは、生活環境中の水銀量の増加につながる。
大きな遺構には至らず、ズリ山のみへの到達となった。
昨今では使用済みの水銀をリサイクルすることで全体の水銀量はコントロールされている。
これが水銀鉱山衰退の主原因である。
平場が若干残存する。
日本各地には『丹』のつく地名が40か所以上ある。
『大丹生』(福井)、『丹生』(大分)、和歌山・山形などである。
水銀の原料『辰砂』を粉末にしたものは
『丹』(に)とか『丹砂』(たんさ)と呼ばれ、
辰砂の採れる地域には、『丹』のつく地名が残されている。
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