公孫[王賛](こうそんさん)

[中国−後漢末]

後漢末の群雄の一人。字は伯珪。 武勇に優れ幽州を拠点に袁紹と河北の覇権を争ったが、敗れて滅びた。 幽州遼西の有力豪族の子として生まれたが、 母の身分が低かったため冷遇されていた。 しかし容姿が優れ聡明で弁舌巧みであったため太守に気に入られて娘婿となり、 援助を受けて盧植の下で経書・兵学を学んだ。 この時の学友に劉備がいた。 孝廉に推挙されて遼東で長史となり巡察中に鮮卑族を撃退するなど勇名を馳せた。 涼州の反乱鎮圧に参加しようとしたが、 公孫[王賛]に出番を奪われる形となった張純が烏桓族の丘力居と共に反乱を起こし、 こちらと戦うことになった。 公孫[王賛]は反乱軍に勝利して武名を高めたが、 追撃で深追いし過ぎて包囲され、両軍食料が尽きて撤退するはめになった。 結局公孫[王賛]は反乱を鎮圧できず、 新たに幽州牧となった劉虞が丘力居を離反させて乱を鎮圧した。 公孫[王賛]は異民族討伐を主張して懐柔策をとる劉虞に反対し、 使者を殺害したり恩賞を略奪するなどの妨害を行った。 さらに董卓の死後献帝の使者となった劉虞の息子の暗殺と兵の強奪を企て、 敵対するようになった。 袁紹と袁術が敵対すると袁紹が劉虞を支持していたこともあって袁術と同盟し、 袁紹と河北の覇権を争って一進一退の攻防を繰り広げた。 最早宿敵となった劉虞が攻めてくると奇襲をかけて勝利し、 追撃によって劉虞の捕縛に成功した。 公孫[王賛]は劉虞が皇帝を僭称しようとしたと誣告した上で一族諸共処刑し、 さらに劉虞の家臣も根絶やしにしようとした。 公孫[王賛]から逃れた劉虞の旧臣は烏桓・鮮卑と組んで兵を集めて反撃し、 さらに袁紹が劉虞の遺児を擁立して共闘したため公孫[王賛]は敗れ、 易京城に籠城を余儀なくされた。 易京城は10年分の兵糧と幾重もの城壁を備えた堅牢な要塞であったが、 攻囲の中で公孫[王賛]は心の平静さを失い、 側近を遠ざけ(7歳以上の男子を立ち入り禁止としたと言われる) 側室や下女に囲まれて暮らすようになった。 さらに敵に包囲された兵を見殺しにしたことで人心を失い、 追い詰められて進退窮まった公孫[王賛]は妻子を殺害し火を放った上で自害した。
公孫[王賛]は武勇に優れ自分や騎射に優れた部下を白馬に乗せ「白馬義従」と名付けたことから 異民族から「白馬長史」と呼ばれ恐れられた。 一方「有能な人間は取り立てても当然と思い感謝しない」として凡庸な人間を重用したため 劉備や趙雲・田豫といった優れた部下からは距離を置かれ、 敗れる一因となった。 さらに金銭を重視し商人を重用したが、 その商人が過酷な収奪を行うなどの悪事を働いたため民心を失うことになった。 劉虞に対する振る舞いも真っ当とは言い難く、 勇将ではあったが到底為政者の器では無かったと言えよう。

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