袁紹(えんしょう)

[中国−後漢末]

後漢末の群雄の一人。字は本初。 最盛期には河北四州を支配し当時の最大勢力となったが、 曹操に敗れ失意の中死去した。 四代に渡って三公を輩出した名門汝南袁氏の出身で、 母親の身分が低いものの威厳のある見た目と清廉との評判によって人望を得ていた。 曹操とは旧知の仲である他多くの名士と親交を深めていたことが 同族の袁術に嫉妬を買い対立していたが、 それが朝廷の警戒を招き叔父の袁隗に叱られることになった。 そこで何進の属官として仕官し、 宦官との権力闘争に積極的に関与した。 何進が暗殺されると同僚達と共に宮中に兵を率いて突入し、 十常侍ら宦官達を皆殺しにした。 董卓が権力を握り少帝の弟劉協に帝位を継がせようとすると対立し、 冀州に逃れるとそのまま勃海郡の太守に任命された。 董卓に反抗する諸侯が挙兵するとこれに加わり袁紹が反董卓連合の盟主となったが、 董卓を都洛陽から追い出すものの洛陽は焦土となり、 諸侯の内紛もあって連合は瓦解し群雄が割拠する時代に入った。 袁紹は董卓が即位させた献帝劉協を認めず皇族で河北に勢力を持つ劉虞を立てようとしたが、 劉虞本人に辞退された。 それと並行して冀州牧であった韓馥に地位を手放させて自身が冀州牧となるなど地盤を固めた。 幽州の公孫[王賛]が劉虞と対立し袁術と同盟すると袁紹とも敵対するようになり、 河北の覇権を巡って争った末に公孫[王賛]を滅ぼして幽州を制圧、 さらに并州・青州を併合して冀州と合わせて四州を支配する大勢力となった。 続いて黄河以南を制圧した曹操と対立し官渡で戦った。 袁紹は物量によって優位に戦っていたが、 陣営の内部対立から許攸が寝返り、 そのもたらした情報によって烏巣の兵糧庫が襲撃されたことが切っ掛けで敗北した。 戦後冀州が反乱が起こるも全て鎮圧したが、 袁紹は健康を害し苦悶の末死去した。 袁紹の死後後継者を定めていなかったため長男袁譚と三男袁尚の間で争いとなり、 曹操によって各個撃破されて袁氏は滅亡、河北は曹操のものとなった。
袁紹は名門出身とは言えライバルの袁術と比べて母の身分が低かったが、 威厳のある見た目と名声から同時代の評価は高く最大勢力を築き上げることが出来た。 しかし曹操ら勝ち残った面々と比べると猜疑心が強く優柔不断な面があり、 好機を生かすことが出来ないどころか内部対立を招いて官渡の敗北に繋がることになった。 また後継者を定めることが出来なかったため死後争いを招き、 自家の勢力を滅ぼすことになった。 戦場では胆力があり善政を敷くなど決して無能ではなかったが、 勢力の当主としては重要なものが欠けている「惜しい」人物と言えようか。

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