鳥居甲斐守忠耀          玄関へ戻る

鳥居甲斐守忠耀

 鳥居耀蔵は、名は忠耀。絆庵と号す。
 寛政8年
(1796)11月24日、大学頭林述斎の三男(四男という史料もある。)として生まれた。
 林家はもともと儒官の家であった。元禄3年に学問好きの将軍綱吉が忍ヶ岡にあった学舎を湯島に移し、これを幕府の学問所とし、林羅山の孫にあたる林鳳岡(ほうこう)をもって大学の頭とした。 
 しかしその後学問所は廃れ、林家も後継者が絶えた。
 約100年後の寛政年間、老中松平定信によって学問所が再興された。 このときに美濃国恵那郡岩村の藩主、松平能登守の第三子乗衡(のりひら)が林家を相続し大学頭に任命された。この乗衡の子として生まれたのが後の忠耀である。
 幼名は耀(よう)。文政3年(1820)25歳のとき鳥居家の娘登与の婿養子となり、翌文政4年に家督を相続した。

 鳥居家は
1500石の旗本で当主は成純。
 
 文政6年2月、中奥番を命じられたが天保3年これを辞した。その後天保5年6月、御徒頭を命じられ、次第に才能を発揮、2年後の9月4日にはに西の丸目付に昇進し、
同9年4月には本丸目付となった。

寛政 8(1796 林大学頭の三男として生まれる。 幼名耀
文政 3(1820) 鳥居家の養子
文政 4(1821) 鳥居家家督相続
文政 6(1823) 小普請組本多大和守支配衆より中奥番に異動。石高2500石。
天保 3(1832) 中奥番を辞任
天保 5(1834) 御徒頭
天保 7(1836) 徒頭より西丸目付(家慶附)に異動
天保 8(1837) 大塩の乱 罪状書執筆
天保 9(1838) 西丸目付から本丸目付に異動 
天保10(1839) 相州海岸巡検
天保11(1840) 蕃社の獄
天保12(1841) 南町奉行 甲斐守に叙任
天保14(1843) 勘定奉行兼帯 任、免
弘化 2(1845) 失脚、丸亀藩預かり
明治 元(1868) 赦免され東京に戻る。
明治 6(1873) 死亡(78歳)

 鳥居は頭脳明敏で、儒学にも造詣があり行動力、事務能力に長け、その限りでは有能な官吏であった。しかし性格は陰険で、出世欲と同時に嫉妬心が異常に強かったようである。しかも洋学は日本を滅ぼすと信じて疑わない狂信的な保守主義者であった。
 
天保8年
(1837)の大塩平八郎の乱が起こった。 大塩は、連年の飢饅で困窮した庶民のために、再三町奉行を通じて救済を建言、富商たちの救助金を求め、自分の蔵書を売って救済の資金にあてたが、幕府が善処しないのを憤り、幕府政治を批判して兵を挙げた。しかし早期に鎮圧され、大塩父子は非業の死をとげた。庶民から救世主のごとく敬われる大塩を、極悪非道の大反逆罪と断じて、塩詰めにされていた父子の死骸を大坂市中を引き回しの上礫に処した。その罪状書を作ったのは鳥居だという。
 この不当な処分は幕府内外の良識ある人たちから非難を受けたが、しかし鳥居はこののち老中水野忠邦に認められ、天保10年、高まる国防論から江戸湾調査、相州他の海岸巡検の正使に任ぜられた。その副使だった韮山代官の江川太郎左衛門は洋式兵学に通じ、蘭学研究(尚歯会)仲問の渡辺畢山、高野長英などと誼を通じ、その助力で鳥居の調査報告よりもはるかに正確で優れた図面を提出し江川と対立するようになる。。
 このことが天保10年
(1839)「蛮社の獄」への引き金となる。前述のように鳥居は儒学による社会安定こそ第一義とし、洋学を「亡国の思想」と信じる保守主義者であった。彼は配下を使って、洋学者渡辺畢山・高野長英らのグループ尚歯会を調査させ、その報告者をもとに、一大疑獄事件を仕組んだ。この結果、幕政批判の罪に問われ、崋山は国元蟄居(のち自殺)、長英は永牢(のち逃亡、自殺)。日本の近代化に大きな遅れをもたらした事件といわれる。
 水野の引き立てで、東叡山御霊屋増修復御普請御用、翌年には大御所家斉の葬儀の「御葬送御法事御用掛」、次いで「御勝手取締掛」を命じられるなど表舞台に立つようになる。
 老中首座についた水野忠邦は、天保12年(1841)、天保改革を断行、その推進の要として鳥居耀蔵を江戸南町奉行に抜擢した。南町奉行に就任した鳥居甲斐守を名乗り、水野改革の実行責任者として辣腕を振った。
 
西洋砲術師範高島秋帆を無罪の罪に陥れ、さらに政敵を葬るためにあらゆる策を弄した。 そして酷吏ぶりを発揮して徹底した民衆の生活統制に乗り出した。鳥居は庶民が改革の緊縮令に反していないかを探るため、スパイを使つたり密告を奨励したり、恐怖政治をとったので、人々は彼を「妖怪」と名付けて恐れ、かつ反感を募らせていった。 

 天保14年8月勘定奉行を兼帯して印旛沼干拓工事を担当し、同年十月月に兼帯を解かれた。
 水野の勧めた
改革は僅か2年で挫折する。
鳥居は天保改革に大きな責任をもっていながら、改革政治が行き詰まつたとみるや、平然と反対派の老中土井利位へ寝返り、忠邦の失政を訴えるという破廉恥な行動をとつた。
 しかし忠邦が失脚するや弘化元年8月6日、鳥居も町奉行を免ぜられ寄合となった。寄合は特に役目はないが、鳥居は江戸城の門を警固を命じられた。
 翌2年2月22日、夕方7つ半(5時頃)、清水御門の警備の勤めをしているところに寄合肝煎奥田主馬、一柳一太郎、寄合大草主膳の3人が来て、急に評定所へ出頭するよう指示を伝えた。
 奥田主馬が馬に乗って先に、一柳一太郎も馬上に乗って鳥居の跡に立ち、中に乗り物2人、徒、鑓、駕籠跡で列を組み3千石の格式だった。 大草主膳は屋敷に跡に残り屋敷の番をした。
 先年の矢部駿河の時と同じである。

 
評定所では久世出雲守、深谷遠江守、跡部能登守、久須美佐渡守、平賀三五郎が立会い、出雲の守から
「其の方不埒の義有之、一通尋之上、吟味中相良遠江守江御預け。」
という申渡を受けた。

 そして同年10月3日、それまでの悪業を咎められて、京極長門守に「永の御預け」となり、二子も改易仰せ付けられた。この年、鳥居は50歳だった。

鳥居甲斐守への判決文
                      寄合 鳥居甲斐
其方義御目付勤役中、天文方役所向取締筋、其他風聞及探索候節、渋川六蔵ハ兼而懇意之者ニ候■、同人身分取調方等之義、支配向之者共へ内意申含、又は町奉行勤役中、武州大井村修験教寛院了善義、不容易祈祷いたし候趣相聞候得共、難得事実候ニ付、其節召仕候家来本庄茂平治へ探索方申含べしてび紋のりきけ甲斐

 四国丸亀に送られた耀蔵は23年の長きにわたって幽閉生活を送り、明治元年(1868)10月に釈放された。
 明治6年
(1873)10月3日、波乱に満ちた78年の人生を閉じている。

 鳥居の墓は、曹洞宗吉祥寺(文京区本駒込3−19−17)の下野壬生鳥居家墓域内にある。碑面に〈甲斐守鳥居忠耀墓〉と刎み、右面に「林大学頭次男 従五位下平朝臣 明治6年10月3日亡魂」と記してある。なお法名は青竜院殿法雲大輪居士という。
 江戸時代を通じて町奉行を勤めた者は96人(再任を含む)を数えるが、江戸の町民から最もおそれられ、嫌われたのだ奉行が鳥居耀蔵であったといわれている。


小説に登場する鳥居耀蔵
 鳥居忠耀は良く小説に登場する。映画にもなった。それもほとんどが悪役としてである。
 矢部定謙の失脚後代って南町奉行に就任し、水野忠邦の天保改革の一翼を担った。鳥居なしに天保時代の歴史は語れない。

文春文庫
妖怪
平岩弓枝
徳間文庫
鳥居甲斐守忠耀事件控
「北の桜 南の剃刀」
宮城賢秀
公新書〈1049
鳥居耀蔵
 ―天保の改革の弾圧者
  
松岡 英夫 ()

鳥居忠耀の日記
 
鳥居忠耀から数えて4代目の子孫で元旺文社副社長の鳥居正博氏(大正5年ー平成6年)が、鳥居が罪を得て京極家預かりとなり遠く四国丸亀に出発した弘化2年(1845)10月から許されて東京に戻り78歳で死亡する明治6年(1873)までの28年間に渡って書き綴った日記を整理して「鳥居甲斐 晩年日録」として刊行している。
 下はその最初のページであるが、全て漢文読下し風で句読点はなく送り仮名もなしで難解な語句が並ぶ。しかし読んでみるとさすが林家の出、文章は流麗である。
 
10月28日高輪を発ちその日は神奈川泊。宿から見る房総の山々を見て、以前来た時との境遇の違いを嘆く言葉が見える。
 翌日から藤沢、小田原と泊を重ね、11月2日箱根越えをして三島泊というように普通の旅に比べてゆっくりとした行程で西上し、11月11日には熱田から海路桑名に渡っている。 
 桑名の船着場は桑名城のすぐ近く。 かって自ら改易、桑名藩預けに追い込んだ矢部駿河守が公憤のあまり自ら食を絶ち餓死した桑名の城を見てどのような感慨を覚えただろうか。 日記には「桑名に航し四日市に宿す」とだけしか記述されていない。
 15日京の南を素通りし枚方泊、翌日は大坂も素通りして西宮泊。 21日に岡山に到着し、下津井から丸亀藩の船で24日にようやく四国に上陸、丸亀城に入った。 実に一ヶ月に近い長旅である。

鳥居の日記(江戸を出発)

弘化ニ年乙巳十月三日 九亀候に保管讃州に流さる。
廿八日 暁に発し高輪に出ず。朝日杲々、海波一碧。藪野中村のニ氏送別す。晩く金河(神奈川)に達し、駅楼に上る。海面藍の如し。房総の山黛を舒べ相迎ふに似たり。我れ昔此の地を愛し遊賞一月を曠くせず。官に就き爾来忽忙二十年、今又楼に上る、山容海態皆な故の如くにして独り此の身の盛衰浮沈、前後変遷、此くの如し。嗚呼人生の幸不幸、山霊海伯をして知らしめば以って如何とするや。楼■宇兄の書する湧金楼の■あり。敬覧数回、親しく■席に侍し音容を伺う如し。之が為に■然。既にして夕陽全く没し海■四起し、望中忽ち模

 下は丸亀生活2年目の弘化4年の日記である。 生活が落ち着いて特段書くことがなくなったせいか、記事量が少なくなり、日記を書かない日も多くなる。
 江戸での出来事、世間の様子などは鳥居の世話をする丸亀藩士や、鳥居の学識を知って教えを乞おうとする訪問客から聞いたものらしく非常に断片的な表現である。
 相当数の書を江戸から持っていったが、現地での書物購入は許されていたらしく、かなりの書物を読んでいる。

              鳥居の日記(丸亀での生活)
弘化四年丁未 
正月元日 前年の如し 
ニ日 感冒葛根湯を服す 
四日 柴桂湯に転ず。 
十日 快、薬を止む 
十二日 新尹旧尹に代わる 
十三日 昨来人面常に非らざるを察し。日簿および墨斗筆一枝を窃に浴室中に蔵す 
十四日 入浴中座間に有る処の物を悉く奪取され先に江戸を発するに臨み三躰詩、■奎律髄、■珠詩格を送餞するにあり。此に来り借る書冊皆烏有となり、隙地の行飯並びに蓬髪剪爪に至る。共々禁ず。主欲後一語を通ずる人無し。余亦恬として問はず。瞑目静座す。 
廿五日 三宅氏窃に語る「客冬松代儒生象山に詣拝、鶴仙子なるものに豚犬の恙なきを話し及ぶ」と。 
二月十五日 正月来、日々瞑座。近日行飯及び■灼を慫慂する者あり。従はず。 
廿一日 重臣来りて摂生を慫慂、因って行飯を促す。厚謝して従はず。

鳥居忠耀の詩・書
 鳥居は幕府の学問頭・林家の生まれ、詩歌にい優れ多くの作品を残している。多くは七言絶句、五言絶句などの漢文詩である。
 上に紹介した日記の金河(神奈川)の宿で海越しに房総の山々を見る情景を綴った部分もこれで十分に流麗な漢詩である。
 
下は弘化3年の作と考えられる詩で、獄中(丸亀幽閉中)で兄を想う詩である。 詩の大意は在獄の憂愁はぬぐうべくもなく、夜が明ければ夕を待つばかり、藩主の待遇は鄭重、看守人の応対も慇懃だが、冤罪が晴れるのはいつの日やら、この哀れさはあなたに訴えるしかない。心に関るのは我が家のこと、僅かの消息すら耳にはいらない、というような意味である。

   獄中憶■兄(■は木扁に聖:テイ、かわやなぎ)
   獄鬱難消遣  天明待夕薫
   主人尤鄭重  衛士亦慇懃
   雪冤知何日  乞憐只憶君
   関心我家事  咫尺不能聞

 
兄は林家を相続し学問頭になったた林■宇である。
 これまでは町奉行、勘定奉行として幕閣で重きをなした実力者。 預かった丸亀藩も粗略に扱う訳にいかず腫れ物に触るように鄭重に扱ったのであろう。鳥居にとっては思いのほかの良い待遇であったが、想うは家族のこと、兄には届かぬ詠とは知りつつも肉親を思う切々の情を訴えずにいられなかったのであろう。
 
 この他にも多数の詩が残っており、「鳥居甲州詩歌集」、「丸々斎詩抄」「黄梁一夢」などに収められている。

仁杉八右衛門に与えた書
    仁杉家の「お宝」参照
   丸亀幽閉中、弘化4年の日記の一部
         歴史読本より      
       


 毎日少しづつ書き足していった筈なのに全ページ変わらぬ几帳面な字で綴られている。

三田村鳶魚の見方

1)陰謀に動いた人々


 南北の町奉行所が連前からも実際からも動かないとなると、矢部の探索に働く者は目付だけとなる。目付の下には徒目付、小人目付、黒鍬の者老などの探索の専門家がそろっている。
 鳥居耀蔵は水野老中から
「矢部の後はお前だよ」
と耳打ちされたに相違ない。
 矢部の町奉行罷免発令が天保12年12月21日で、その一週問後の同月28日に耀蔵が後任となっている。耀蔵は町奉行昇進とわかっていただけに、矢部の探索には欣喜雀躍して当たっただろうと想像される。
 もう一人、矢部の探索に当たった者としては、評定所の判決の立合い人として名をつらねていかずえのかみる目付の榊原主計頭忠義が考えられる。
 立合い人の目付としては鳥居耀蔵が名を出して当然なのに、榊原となっているのは「榊原が出ておれぼ同じことだ」という耀蔵の意図が感ぜられる。榊原ははっきりした鳥居派であったからである。
 川崎紫山の『矢部駿州』によれぽ、矢部が追放地の桑名で絶食しているとの報で、将軍家より奥医師の中川道玄がつかわされた。矢部は中川の調合した薬を固辞して、ただひとつ頼みがあるといい
「自分は上への恨みはまったくないが、ただ三人だけに恨みがある。その三人とは、水野越前守、鳥居甲斐守、榊原主計頭である。この人びとの末路を必ず見とどけてくれ」
と中川にいったという。
 ここに榊原の名が出ている。矢部を罪に落とすことに実質的に働いた人びとの中に目付の榊原がいたことは、当時の人びとの常識であった。ただし鳥居耀蔵が矢部追落しに具体的にどのように働いたか、という証拠となるべき史料はない。
 矢部への罪状判決文の後段に「(仁杉五郎左衛門に)御暇、押込め申しつける方に内意申し聞かせ侯につき、吟味遂げ候ところ、品々不行届きの始末、白状におよび…」という一節がある。この「吟味遂げ候ところ」の吟味はだれがやったのか、主語が抜けている。
「御目付.鳥居耀蔵と榊原主計頭が吟味遂げ候ところ」とすれぱよくわかる。
 矢部定謙にもう一人、深い恨みを抱いている人物がいた。金改役の後藤三右衛門である。
 のちのことになるが、天保15年(弘化元年)9月の、水野忠邦罷免直後に三右衛門が、つぎの幕閣の実力者と狙いをつけた側用人の堀親■(ちかしげ)に必死の思いをこめて提出した陳情書の中に、矢部に対する恨みが述べられている。
 それは天保7年、矢部が勘定奉行になった年に、金銀両座と蔵前札差に対し50万両の上納金を申しつけたことである。両座と札差たちが集まってどうしようかと相談したとき、三右衛門の譜代の家来で80歳近くになる井田芝山という経済通が進み出て「この命令はかれこれ評議することなく、すみやかにお請けになるべきである。上より暴虐の命令があるときは、必ず後年にわれらに吉事がある前兆であるし、上には必ず悪事が報いとしてくる」といったので、すぐにお請けの返事をして、三右衛門や家来たちが家財を売り払ってまでして、その年のうちに10万両を上納した。
 三右衛門は、この天保7年の上納金という暴政のむくいで、幕府にはつぎつぎに凶事が起こっているとして20項目の実例を挙げている。
 ここのところがのちに三右衛門死刑判決の一つの根拠となったのだが、ともかく幕府方の天罰20番目に挙げられているのが矢部定謙の失脚である。
「上納金取り立ての大棟梁矢部駿河守、改易絶命。7年目に至りて因果ことごとく元に帰し仕り侯」
と書いている。
 矢部の上納金下命は老中の決定を、勘定奉行という職務上から代表して申し渡したに過ぎない。それを三右衛門は矢部個人のせいにして恨みつらみを並べている。
 この恨みつらみは、日ごろ懇意にしていた上に、金銀貨改鋳問題で意気投合していた鳥居耀蔵(当時目付)にもぶちまけられたであろう。町奉行・矢部追落しの謀略には、耀蔵が後藤三右衛門に扇動されたという面があったに違いない。

2)「妖怪」の出現
 矢部追落しに耀蔵がどんな働きをしたかは当時の幕府人に常識としてわかっていた。
 目付陣も10人前後はいたのだから、耀蔵がどんな仕事をしているかは、同僚として見当がつく。
 南北町奉行所にも大勢の与力、同心がいる。旗本のことには関与しない建前だが、このお救米事件には町人が関係していたのだから、そっちのほうを調べれぽ町奉行所にも内容がわかる。また当の被害者の矢部定謙の口からも、だれが、どんな調べをしたかが洩れてくる。 そしてヒマを持てあましていた江戸城の役人たちに話が伝わり、広がっていく。
 幕末に軍艦・外国両奉行を勤め、維新後は『郵便報知新聞』に拠って健筆をふるった栗本鰻(鋤雲)は、鳥居耀蔵についてつぎのように書いている。
「刑場の犬は一度、処刑された罪人の肉の片はしを食べるとその味が忘れられなくなり、その後は人を見れば噛みつくようになる。そのためについには僕殺されることになる。鳥居甲斐のような人物はこの刑場の犬のようなものではないか(中略)。
 蛮杜の獄は、他の目付役ではとても立件できるものではなかったので、(耀蔵は)同僚中に評判が高く、本人も大いに得意になっていた。それ以来、彼ははとかく聡明なる頭脳を用い過ぎて、人を陥れて告訴することを目的とするようになり、網を張り、罠を設げてしばしば疑獄を起こし、無実の人に惨苛をこうむらしめた。
 矢部氏の事件などは最もにくむべき行為であって、天保13年は同7年より7年も後なのに、さかのぼって仁杉五郎左衛門の罪を審問して、この犯罪を不問に付した当時の町奉行筒井氏の罪は罷役という程度にとどめ、後任の矢部は仁杉に課した罪が軽すぎるという理由で、禁鋼、没籍とは何という処罰なのか、非理もまたひどいものである。
 思うに、甲斐は矢部の才識や人望が自分の上に出ているので常日ごろこれを嫉妬していて、なんとか傷をつげようとねらっていたが、そのスキがなかった。
 たまたま仁杉の断罪が軽すぎるという問題が出てきたので、初めて宿志を達するときがきたとし(中略)、百方に人をあざむいて、とうとうこの獄をつくりあげるに至った。
 栗本鋤雲は鳥居耀蔵が矢部定謙追落し疑獄の張本人であることに何の疑いも持っていない。
 そして、刑場の犬が腐肉の味を忘れないようなものだと耀蔵を酷評している。
 矢部定謙は家は改易、身は桑名藩(11万石)にお預げという切腹一歩前の極刑に処された。徳川の旗本としてこれ以上の恥辱はない。
 彼は禁固先の桑名において絶食して死を選んだ。壮烈な死とも、哀れな死ともいえる。
 その反動として、幕府人の非難が耀蔵に倍加してはね返ってくる。

 耀蔵は南町奉行に発令されると同時に甲斐守となった。このころ小普請奉行に曲淵甲斐守という人物がいて、この家では代々甲斐守を名のっていた。曲淵家は甲斐の武田家の出であるから、甲斐守はこっちが正統であり、世間によく通った名であった。
 そこに鳥居甲斐守が出現したので曲淵と区別するため、「耀蔵のほうの甲斐」といい、それがつまって耀甲斐となり、ついに「妖怪」とよぼれるようになった。
 幕府のヒマな連中は仕事には役に立たないが、こういう風刺文や風刺語の作成となると、才能を発揮する。
 また町奉行が連続して二人、改易・他家預けになったというのは徳川幕府260余年の間にこれが唯一の例である。
 天保の改革という異常な時代を背景に、その中から一人の異常な人間が生まれたことによって異常な例が生じた。改革という政治的事業はそれにふさわしい偉大な人物によって成しとげられる。凡庸な大名たちの中で、多少頭が切れ、性情酷薄でやり手であるという程度の者が政治改革をやったんでは失敗する。
 水野忠邦がいい例で、鳥居耀蔵の起用という人事上の失敗も、忠邦自身の頭脳の欠陥の一つの証拠で、資格のない者が改革をやると、改革の副作用のために失敗し、自減する。

 鳥居耀蔵の人物評については、後に挙げる後藤三右衛門の言葉が、同時代人であり、かつ常に親しく相接し、盟友ともいうべき関係にあった者が歯に衣着せず吐露したものとして最も信用すべきものと思われるが、さらに栗本鋤雲のほかに、当時およびその後の幕府人の平均した耀蔵観とLて、木村芥舟の評言をつぎにあげる。
 「鳥居忠耀は若いときから英特の人物との評判が高かった。天保12年目付より町奉行に抜擢され、勘定奉行を兼務した。革新の事を自分の任務とし、市井遊惰の民を懲戒して毛筋ほども許さなかった。しかし積年の余弊が人心に食い込んでいて、一般の人びとは不便を訴え、怨みの声が街に満ちた。
 彼は目付だったときから西洋の学風が大嫌いであって、その砲技を否定し、あるいは洋書を読む者は国家に大害があるとして、力を尽してこれを根こそぎにしょうと骨折った。
 また改革の事についても、自分と意見の合わない者があるときは、ときに陰険の手段を用いて排除した形跡がなくはない。この点はこの人のために深く惜しむところである。
 しかしその剛硬不撓の気性の終生変わらなかっったのは他人の決しておよぶところでない。 
   町々でおしがる奉行矢部にして
      どこが鳥居で、何がよふ蔵
   荒目付何が鳥居で町奉行   
      跡をたのむぞ、佐々木三蔵(『天言筆記』

 佐々木三蔵は、鳥居の同僚の目付である。忠邦は北町奉行遠山景元がとかく改革に批判的で、手をゆるめることが少なくなかったので、同気相求めるところのある鳥居を南町奉行に起用し、その実行力を利用して大いに改革の成果をあげようとしたものであろうが、この人事は江戸市民からはさんざんの不評を買ったのである。
 しかしとにかくこれによって改革路線はひとまず強化され、以後江戸の市政は忠邦と鳥居のコンビのもとに推進されてゆくのである。


鳥居の屋敷   
 
鳥居甲斐守の拝領屋敷は河内山宗俊で有名な下谷の錬塀小路にあった事は小説などでも知られている。  錬塀小路は現在の神田練塀町、秋葉原駅のすぐ北にあたる。
 その屋敷図がが見つかった。(藤岡屋日記・弘化2年)
 普通、屋敷図などは余程のことがないと後世に残らないが、鳥居は前述のように弘化2年に改易となっており、屋敷も公儀に没収されているのでその記録として残ったと考えられる。
 
 図を見ると表門は新屋敷表門通りに面しており、裏門が練塀小路に接していた事がわかる。
 表門は両側に使用人が住む長屋を配した長屋門で、庭には大きな池があり、2500石の旗本家にふさわしい立派な屋敷である。
 

 この屋敷は鳥居が弘化2年2月22日、罪を問われて相良遠江守預けとなってからは鳥居本家丹波守が預かっていた。 その後鳥居が4月27日佐竹壱岐守へ預け替えとなり、さらに10月3日、最終的に京極長門守への永預けが決まると、幕府から屋敷取り壊しの命が出た。
 親類より人夫を出して10月7日から3日間にわたって諸道具の運び出しを行い、家屋は取り壊され、庭の樹木は切り払われて湯の薪になった。
 公儀に引き渡された屋敷跡地はぼうぼうとした草地になっていたと藤岡屋日記にある。

 この更地は翌3年11月14日に下記の旗本に分割して与えられた。
     永田鍋太郎 31間  x 15間     465坪
     平井 数馬 18間  x 15間     270坪
     藤田 次郎 14間5尺x 15間2尺   222坪
     大野茂三郎 14間5尺x 15間2尺   222坪
     伊庭保五郎 14間5尺x 15間2尺   222坪

 上記5名の拝領地面の合計は1401坪、新たに作った道路分を足すと鳥居の屋敷面積は約1500坪程度であったことがわかる。(平岩弓枝の「妖怪」によれば鳥居の屋敷の広さは1470坪とある。
 なお、文久年間の地図を見ると、上記5人の旗本のうち残っているのは永田鍋太郎だけ。(文久地図では永山鍋太郎となっている。) 平井数馬の屋敷は屋代千太郎に変わっており、藤田、大野、伊庭3名の屋敷地約666坪は10軒の御家人屋敷に分割されている。 
 天保年間の鳥居の屋敷が20年後には12家の屋敷地に変わるという変化に驚かされる。 江戸時代を通じてあまり変化のないように思える江戸の武家屋敷だが、実には詳細に見ればどんどん変わっていたのだ。

鳥居の屋敷図
(天保時代)
 旗本5人に分割された鳥居屋敷跡地
(弘化3年)
文久年間の練塀小路付近



鳥居の屋敷跡が12軒の武家屋敷となっている。


上(東)が練塀小路
下(西)が新屋敷裏門通


 練塀小路は正式には新鳥見町という。 外神田松永町と相生町の間から北に抜ける小路。 南の隅にあった旗本屋敷の練塀が立派で人目を引いたことから誰言うともなく練塀小路と呼ばれるようになった。 
 河内山宗俊の屋敷があったと講談で有名になったが、宗俊の実際の住所は菩提寺高徳寺の檀家町によると柳原岩井町代地三河屋横丁だった。
   
「厄介な人たち列伝」での鳥居の記事(五郎左衛門関連の部分のみ抜粋)  
          (http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/jinbutsu.html)
  (前略)
 天保の改革の時に、南町奉行矢部定謙を失脚させる。矢部は極めて有能な為政者で、大坂町奉行の時には、密貿易をつきとめたり(竹島事件)している。大塩平八郎とは友人である。天保の改革で江戸庶民の贅沢を幕府が禁止したときも、庶民の生活を守るために北町奉行の遠山景元(遠山の金さんね)とともに反対していた。矢部と遠山は、江戸町人からの人気が高く、水野忠邦も手をつけなかった。
 鳥居は矢部に、大塩平八郎を侮辱した際や、測量の邪魔をしたときなど、散々に叱られて個人的に恨んでいた。そこで鳥居は矢部の失脚を狙って身辺を調べたが何もなく、挙げ句に「五年前に南町に勤務する与力が汚職していた(矢部はその時はまだ大阪)。その与力は死亡した。矢部は南町奉行になり、その実態をつきつめ、そういうことがないように管理を徹底した。しかし、汚職をつきとめておきながらこれを罰しないのは不届きである」という、因果関係も時間さえも関係のない罪を作った。矢部は失脚して桑名に流されたが、憤慨して食を断って死んた。
  (後略)

栗本鋤雲(くりもと じょうん) 名は鯤、通称瀬兵衛。
 文政5年(1822)3月10日、徳川幕府の医官喜多村家の三男として江戸神田で生まれた。後に同じ医官の栗本家を継ぎ栗本姓を名乗っった。
  30歳を過ぎた頃、幕府の命を受け蝦夷地に移り住み、約10年間、薬園・病院づくり、養蚕業の普及等に尽くし、文久2年士籍に列し、函館奉行の組頭を勤めた。
 このころ同じ函館にいたフランス人の書記官メルメ・デ・カションと密接な交際があり、お互いに日本語とフランス語を教えあい、これが後に親仏派の幕臣となり、幕府とフランスとの親密な外交を行っていくための大きな布石となった。
元治元年(1864)、43才で江戸に戻り昌平黌学問所頭取、目付役から先手頭、軍艦奉行などを勤めた。
 その後、函館にいたカションがフランス公使レオン・ロッシュ付書記官として横浜勤務となったので、旧交を温めるとともに、公使ロッシュとも親しくなった。
慶応元年(1865)軍艦奉行になり、横須賀造船所の設立にあたり、フランスの助けを借りて建設するため小栗忠順とともに日本側の責任者として尽力した。 
慶応2年には外国奉行をも兼帯、 慶応3年、外国奉行兼箱館奉行としてフランスに出張。借款の交渉に赴いたがその間に幕府が瓦解した。
 維新後は新聞記者になり、明治6年(1873)郵便報知社の編集主任となって成島柳北、福地源一郎らとともに名記者として知られた。
 登山家としても知られており、慶応3年のヨーロッパ出張時にアルプスに登っており、日本人で初めてアルプスを登山した人物でもある。明治30年(1897)3月6日、76才で没し、小石川大塚善心寺に葬られた。上の銅像は群馬県倉渕村東善寺境内にある。   (HP「綵鑑」などより)

参考文献 江戸人物伝「天保のライバル奉行」  白石一郎     文芸春秋社
鳥居耀蔵 天保改革の弾圧者     松岡秀夫     中央公論社
妖怪                平岩弓枝     文芸春秋社
北の桜、南の剃刀          宮城賢秀     徳間文庫
近世庶民生活史料藤岡屋日記  鈴木栄三・小池章太郎  三一書房
歴史読本(02年10月号)
、月刊誌「舊幕府」明治30年
参考サイト 大塩の乱資料館 小山松吉 「矢部定謙」
大塩の乱資料館 川崎紫山 「矢部駿州」