樋口一葉の父     トップ

 明治の天才女流作家・樋口一葉の父親・樋口則義は南町奉行所で八右衛門の部下であったことがわかった。(中央区郷土史同好会の巻渕彰氏からの情報をもとに、杉浦純子さんの協力を得た。)

  樋口一葉
明治を代表する女流作家。
明治5年(1872)陰暦3月25日朝8時、父・則義、母・多喜の次女として東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の武家屋敷で生まれた。本命奈津(なつ)。
父則義は江戸南町奉行所の同心であったが、維新後、一一葉が生まれた頃は東京府庁に勤める下級役人であった。明治25年、19才の時、東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水について小説の手ほどきを受け、翌年処女作「闇桜」を発表、続いて「うもれ木」が出世作となった。明治28年には「たけくらべ」「おおつもごり」「にごりえ」「十三夜」「わかれみち」など代表作を発表したが、翌29年11月23日、肺結核のため24年の短い生涯を閉じた。

 樋口一葉の父母(樋口則義・たき)はともに甲斐国山梨郡の生まれ、結婚を許されなかったため、駆落ちして江戸に出て来た。
 江戸では則義の父八左衛門の友人で蛮書調所勤番筆頭だった真下専之丞の世話になり、ここで使い走りの職を得た。その後、苦節10年、慶応3年(1867)に南町奉行所の平同心・浅井竹蔵から同心株を買取り、30俵2人扶持の同心となった。
 則義は大変几帳面な性格だったようで、故郷から江戸に向かう行程を記録した太吉日記をはじめ、各種の願書や届出書、契約書の写などを丹念に記録にとどめている。

 下は浅井家の家督を引継ぐにあたっての契約書の写しである。慶応3年5月16日となっており、この頃は「為之輔」を名乗っていた。 江戸での後見人ともいうべき真下専之丞も名前を連ねている。
 契約書を見ると同心株の譲渡代金は100両で、内50両を前払いし、全て譲渡手続きが終わったら残金を払う事、もし譲渡不調に終わったら50両を払い戻す事、家督相続が終ったら(浅井から樋口に)に改姓すること、菩提寺(浅草正安寺)の供養をする事、(浅井の)母親の面倒を見る事などの細かい取り決めが並んでいる。

             浅井家家督譲渡の契約書

 また、下の写真は上記の契約で為之輔(則義)が浅井竹蔵の職務、家督を譲り受けた届出を受けて、同7月に奉行所から出した通達書である。 浅井竹蔵が属していたのは5番組で、この支配与力は仁杉八右衛門だったため、樋口則義も5番組所属となり八右衛門の支配下に入った。
 則義が江戸に出て10年で100両という大金をどう都合したのか、また慶応3年といえば明治維新の前年であり、幕府崩壊はもう誰の目にも明らかになっていた頃であるのに、100両もの大金を払って同心株を買って帳尻が合ったのか興味深い。 米の値段にもよるが、100両といえば同心の年収の20倍以上である。
 浅井竹蔵は病気のために同心株を売った模様であるが、翌年には奉行所は廃止となっているので、結果的には「高く売り抜いた」といえるのではないか。

 奉行所からの通達(五番組 仁杉八右衛門の名が見える)
支配与力 江
五番組 仁杉八右衛門支配
   平同心
     浅井 竹蔵
   撤兵
    西村熊次郎厄介弟
     樋口為之輔 
右竹蔵儀病気に付願之通御暇申渡候
同人跡江為之輔御抱入申渡竹蔵取米
三拾俵弐人扶持町屋敷共被下候間其段可
被申候
 卯七月


樋口則義の生涯(井上ひさし著「樋口一葉に聞く」、樋口一葉館資料目録などより)

 則義は天保元年(1830)、大菩薩峠の西麓、甲斐国山梨郡中萩原村十郎原(現在の山梨県塩山市中萩原)の農業・樋口八左衛門・ふさの長男として生まれた。
 幼名大吉、後に八代吉、斎藤甚蔵、為之輔などと称した。 八左衛門は詩、狂歌を詠むという当時の農村では志高い中農であった。
 則義は父親の影響で幼少より文学を愛し、村内の慈雲寺に開かれていた寺子屋では秀才の誉れが高かったという。

 この寺子屋で同じ村の農業・古屋安兵衛・よしのの長女あやめ(後のたき)に出会った。 長じて二人は結婚を希望するようになったが、あやめの生家は地主階級で家格が違うため、則義との結婚は許されなかった。
 則義28才、あやめ24才の安政4年(1857)4月6日、二人は故郷の村を出奔し江戸に向かった。この時あやめは妊娠8ヶ月であった。
 大吉日記によれば6日に中萩原を出た二人は甲州街道ではなく、藤之木を経て 、山中(鳴海屋)で泊まり、翌日駕籠坂峠を越えて矢倉沢(ふじや)泊、小田原から東海道に出て大磯(油屋)に泊まっている。6日目の4月12日に川崎大師、羽田弁天などを見た後に品川(釜屋)で一休みして江戸に入り、馬喰町弐丁目の丹波屋に止宿している。
 翌々日の14日に故郷の先輩で父八左衛門の友人の益田藤助を訪ねた。益田は幕臣真下家の家禄を買って真下専之丞を名乗り、蕃書調所(洋学の研究所)の調役をしており、則義は真下の世話でその調所の使い走りとして江戸での生活をはじめた。
 5月なかばには長女ふさが誕生したが、あやめはふじを産むとすぐ、湯島3丁目の旗本、稲葉大膳(2500石)の娘の乳母となった。給金は3両だった。

 それから10年。どのような職業でどのような手段で100両という大金を都合したか、不明であるが、とにかく当時「為之輔」を名乗っていた則義は慶應3年に病気の浅井竹蔵から同心株を買い取り、幕吏となった。
 しかしその奉行所も翌年の明治維新で廃止となり、鎮台府支配下の市政裁判所になり、則義は奉行所同心から鎮台府付となった。その市政裁判所も一年もたたないうちに廃止となり、東京府に移管された。
 明治5年3月25日、後の一葉となるなつが生まれた頃は東京府権少属という下級役人になっており、俸禄は現米3石という薄給だった。
 その後、明治10年警視局雇となり、まもなく警視庁警視属となったが、晩年は長男の死、次男の家出などの不幸が続き、明治21年に警視庁を退職した。 
 そして退職金をつぎ込んで新事業に乗り出したが、これは失敗に終り、残された一葉には過大な経済的負担となった。則義は失意のうちに明治22年7月12日病没した。60才だった。