利休流茶道教授 東池袋茶道教室

 当稽古場と指導方針


↑瓢阿庵佐藤宗雅(稽古主任)

 16代黒沢宗月から今井氏に伝承(東京にて)、今井氏から菊地宗雲に伝わった(北海道旭川にて)点前を、瓢水庵菊地宗雲(1996年11月没 享年89歳)が1960年ころに東京都豊島区東池袋に住まいするようになってから門弟に伝授していた社中が清遊会です。その弟子であり、現在の東池袋茶道教室の地で清遊会稽古場を再開した瓢峯庵佐藤宗清は2020年2月に他界(享年72歳)しましたが、同じ地で茶道稽古場の存続に尽力していきたいと思っております。
 
 「茶道」といえば、「伝統」「作法」「堅苦しい」「正座が辛い」「アイスは好きでも飲むのは…。」などのように、かなり固定的なイメージで捉えている方が多いのではないでしょうか。しかし、作法や精神修行的な堅苦しい側面があることも否定いたしませんが、楽しいことが数多くあるのも事実です。お茶やお菓子の美味しさ、人と人とのふれあい、日常生活とは別の空間や時間など、普段の生活では得られないものが、たくさん待っています。そんな楽しみのお手伝いが出来ればと思います。
 「心」や「作法」はもちろん大事ですが、まずは「関わる人が楽しむこと」を、お稽古場の目標としております。ただ、お茶は飲む人がいて初めて成立するものであり、人の関わりあいなくしてはありえないものです。お道具を大切に扱い、人を思いやる気持ちを持った上で、何かしらの楽しみを見出して下さったとしたら、こんなに幸せなことはありません。
 当茶道教室の先生方は、伝わってきたお点前の手順を忠実にお教えしております。茶人としての心構えや姿勢などは、手順を学ぶ過程と、先生方や先輩のお弟子の方々から習っていただければと思います。私達のお稽古場では、それらの環境作りを心がけております。
 はじめるきっかけはひとそれぞれ。お茶好き、和菓子好き、花嫁(花婿)修行、陶器好き、癒しの時間…、等々、それぞれの楽しみ方で茶道に触れていっていただければと思っております。

 流派と伝書の継承について

 8世紀、中国大陸に定着した喫茶様式を陸羽が茶経に著しました。それが日本に伝来したのは12世紀の鎌倉時代。以降、喫茶様式は茶種および茶経等の書物を基に日本の風土にあわせて進化しました。
 室町後期の16世紀、茶道としての手前形式が流儀定型化され、書院・広間の茶から小座敷(6畳・四畳半)の茶へと移行、小座敷から小間・草庵へと形式を発展、16世紀後半の安土桃山時代には日本の茶道形式として確立されました。
 この時期の茶道形式は、時代の華道・茶道・香道等の文化指導を専業にする人々(同朋衆)によって定められたものです。まず、現在に伝わる書院の茶道形式は、流祖とされる村田珠光らによって整えられました。次に、座敷の茶は納屋衆・豪商たちの間で始まり、珠光の教えを受けた武野紹鴎らが小座敷の茶形式をつくりました。そして草庵の茶形式を定めたのは、武野紹鴎の教えを受けた千宗易すなわち千利休です。
 系統4番目に出現する利休の娘婿だった円乗坊宗円は、元々同朋衆の家柄で利休の下にいたる前から書院の茶の湯をよく知る立場であったこともあり、利休の下では書院の茶から草庵の茶までの覚書を書き記しました。これが伝書として後世に伝えられる茶道点前全書です。
 円乗坊宗円は、利休没後、熊本細川家の茶頭として保護されました。伝書は、16番目の継承者である黒沢宗月に伝承されるまで、藩流として受け継がれたのです。
 16代継承者・黒沢宗月は、藩流から離れ、東京にて利休流として免状を発行するようになりました。
 昭和18年、黒沢宗月没後、今井氏から菊池氏が継承し、伝承の流れが現在の清遊会に至っています。時代や家格に左右されることなく、継承者から弟子へ伝書を伝えてきました。
 伝書を基にその総てを会得し、免許皆伝者として我流に陥ることなく先達の稽古科目と口伝を継承し、世紀を超えて茶道の清き流れを美しく継続していくことが、流派として大切と心得ております。