被爆絵画一覧                    

「被爆絵画」の貸し出しをご希望の方はこのページの最下欄をご覧くださいませ。

No.1

      
作者:菅原 舞花

《「戦争はいやだぁ!」と叫んだ母》

2023年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:岡崎 満也 (長崎・当時9歳)


 原爆投下の2日後、自宅の大浦から道ノ尾まで、直線距離で約7㎞、放射線のただ中を、それとも知らず、祖母・母・私・弟・妹の5人で歩いて行きました。
 長崎駅ではお医者さんが、ケガ人の治療というより、ケガした人のボロボロの服を皮膚からはがす作業をしているようで、それは大変な光景でした。
 浦上駅・浜口町方面、一面焼け野原で、どんな爆弾を何千発落としたらこうなるのだろうかと思いました。
 大橋で浦上川を埋め尽くす死体を見た時、母は「戦争はいやだぁ!」と叫び、祖母が咄嗟にその口をふさぎました。私は優しいお母さんが非国民と思われ、刑務所に入れられるのではないかとすごく怖くなりました。


No.2

      
作者:池田 菜々香

《原子爆弾と私(炸裂の瞬間)》

2023年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:開 勇 (長崎・当時7歳)


 私は、爆心地から4㎞はなれた、標高200m程の峰の頂上付近にいた。空襲警報も鳴っていないのに、長崎の街の上空から、グワーンというエンジン音が聞こえ、驚いてその方向を見ていると、最初に赤いドロッとした紐のような光が見え、次の瞬間、太陽と同じ物凄い光が、街全体と私を包み込んだ。
 1000本の針でチカッと刺されたような感じと、バシッという物凄い光の圧力を感じ、閃光で何も見えなくなった。
 原爆は表面温度が6000度の太陽とほぼ同じで、爆心地付近の地表は3000~4000度になったといわれる。


No.3

      
作者:宮迫 若菜

《それでも生きる》

2023年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:中川 裕子 (広島・当時4歳)


 温子(妹)を抱いた母と、祖母と私は、広瀬川を渡ろうと逃げてきましたが、橋は落ちていました。土手から、いかだのような板に下りる時、温子を抱いた母はうまく下りられず、水中に落ちました。
 「この子は生きています!」と、なかなか助けてもらえない温子をいかだに乗せてくれるように頼み、母も這い上がりましたが、バアーっと血を吐きました。
 温子は河原で亡くなってしまい、瀕死の重体だった母は、自分だけトラックに乗せられて病院に運ばれたことに傷つき、温子だけを河原に残して来たことが頭から離れないと泣いていました。



No.4

      
作者:松野 美月

惨憺(さんたん)の残影》

2024年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:釜崎 照子 (長崎・当時7歳)


 8月15日、街に出ると、(むしろ)をかぶせた大八車が、何台も何台も並べて置いてありました。一緒にいた祖母が、何だろうと筵をめくって見ると、その下には黒く焼けこげた死体が、無造作に積み込まれていました。これから焼くための順番を待っていたのです。祖母も驚き、すぐ筵を戻しましたが、この光景は衝撃的で、心に強く残っています。 



No.5

      
作者:東 陽音(はるね)

《頭上に見た原子雲》

2024年
アクリル絵の具、キャンバス


 被爆者:松本 隆 (長崎・当時10歳)


 ピカッと光った直後襲ってきた百雷のような爆発音と生温い爆風の後、我に返った私は周りの人たちと一緒に駅舎を飛び出しました。
 直前まで真夏の太陽が照りつけていたのに、周りが薄暗くなっているのに驚き空を見上げると、黒・赤・白・紫色が入り混じった雲が、物凄い勢いで渦を巻きながら迫ってくるではありませんか。
 それを見た私は、このまま逃げ場を失って死んでしまうのではないかと思う程の恐怖感に襲われました。
 その瞬間から記憶がぷっつり途切れてしまい、その後の自分の行動や周りの被害状況はいまだに思い出すことはできません。



No.6

    
 作者:浦川 結衣

《娘を見つけて安堵する母》

2024年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:森 律子 (長崎・当時6歳)


 原爆炸裂の瞬間、玄関から家の中へ吹き飛ばされました。真っ暗な中、うつぶせ状態の私は、大きな物に挟まれ、身動きもできませんでした。
 どう助けてもらったものか、その後のことをよく覚えていません。這い出して見ると、縁側で被爆した母は、ガラスなどの破片が顔や手足に突き刺さり、血だらけの姿で、それでも自分の事より私を心配しながら立っていました。


No.7 

    
 作者:奥村 春香 ・ 松野 美月

《原爆から隔てられた孤独》

2025年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:藤井 恵子 (長崎・当時7歳)


 長崎に原爆が落とされた時、私は佐賀の叔父のところに疎開していました。8月9日は夏休みで、小学校の運動場で遊んでいた時に空が黒くなったのです。私は家のことが心配でした。12日後に叔父が長崎に連れて行ってくれましたが、家も何もかもぺちゃんこで、父母や姉弟に会うこともできませんでした。
仕方なく佐賀に帰りました。それから私は赤痢になって入院したのです。家族は誰もいなくて、一人寂しい思いでいつも泣いていました。そこの病院では入院している間ずっと、食事はいつもゴボウの汁だけ。ゴボウに助けられたんだから、今でもゴボウがスキです。 



No.8

    
 作者:義經 しづか

《その時!》

2025年
アクリル絵の具、キャンバス


 被爆者:米尾 淑子 (広島・当時10歳)


 私は爆心地から21㎞離れた安佐郡大林小学校に学童疎開していた。
 その時、一瞬天地が揺れ、窓ガラスが壊れだした。廊下で朝礼中の生徒一同、裏山の竹やぶに避難した。広島の空は赤黒く、異様に光りながら巻き上がる雲と炎。それは今まで見たこともない空だった。山々の峰を超えて、その中に真っ黒く焼けた得体のしれない物体が混じって飛んでいく。

どうなる!!どうなってる!!どうする!!神様!!
仏様!!
どうぞお守りください!!

その後、母は生き残って私を迎えに来てくれたが、その6年後には溶け崩れるように亡くなってしまった。 



No.9

      
作者:山本 涼光(すずか)

《原爆炸裂!その瞬間の姉と私》

2025年
アクリル絵の具、キャンバス


 被爆者:隈部 アサ子 (長崎・当時8歳)


 原爆炸裂の瞬間、太陽が落ちてきたような光が広がりました。開けた窓から見ていた姉は「きれい!花火みたい」と言いました。真正面からその光を受けたので、顔から首、着ている服もボロボロ、全身火傷です。お化けみたいになっていました。私は、とっさに両手で顔を隠して奥の部屋に駆け込みました。右手を前にしていたので、右腕だけに火傷を負いました。
 姉は病院に運ばれ何年も入院していて、なかなか会えませんでした。姉の火傷の跡はずっと残っていました。



No.10

    
 作者:池田 菜々香

《長与の救護所をめざす被爆者の列》

2025年
油絵の具、キャンバス


 被爆者:松本 隆 (長崎・当時10歳)


 爆心地から約3.5㎞離れた高田郷の道路に、更に約1㎞先の長与国民学校臨時救護所をめざして避難してくる人の列が続きました。髪はボサボサ、衣服はボロボロ、剥き出しの肌は焼け爛れ、足をひきずりながら必死に歩く悲惨な姿が、熱線で起きた山火事の炎と重なり、今でも目に焼き付いています。
 米軍の戦闘機が超低空で襲ってきても、誰一人逃げようとしない。もう逃げる気力・体力もなく、恐怖をも感じない極限状態だったと思われます。

「被爆絵画」貸し出し依頼文書

貸し出しご希望の場合は・・・
上記依頼文書を作成し、福岡市原爆被害者の会へご提出をお願いします。
受付後こちらより内容について(平和のまちミュージアムへ行かれる日
及び返却日なども)お尋ねいたします。
絵画を委託している北九州市平和のまちミュージアムへはこちらより
ご連絡しますので、日程には余裕をもってご依頼いただけますよう
お願いいたします。
不明な点がございましたら、事務局へお問い合わせ下さいませ。

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