この世界はまるで泥沼だ。 いつからか、世界は敵で溢れていた。 もう二度と会うことの叶わなくなった父。突然の事故。 泣いてばかりで、何も出来ない母親。 葬儀の席にさえ借金を取り立てにくる大人たち。 金銭的に高校進学など望めない立場での奨学生入学。 善良な仮面を被り、物知り顔で囁く周囲の人間達。 才能という枷。自身を金で買われ、唯一自分を解放できるサッカーさえも義務となった。負ければタバコの煙の向こう側で眉を顰められ、勝利を湛えられても何の感慨も沸かない。 日に日に、自分の中に真っ黒い泥が積もっていくような気がする。 この世界はまるで泥沼だ。綺麗な花なんて咲かない。 周囲には敵ばかりだ。例え親しいクラスメイト、一緒にサッカーをやっている仲間の中にも、それは紛れ込んでいる。 そんな日向の目の前に、彼はまるで問いかけるように存在した。 ――泥沼の中でも、綺麗に咲ける花があったらどうする 初めて見た時から、彼から目が離せなくなった。 常に周囲から浮き立って見えるその存在。頑ななまでに真っ直ぐで、素直な視線。 それを自分に向けさせたい。『好き』だとか『愛情』などという生半可な言葉に違和感を感じるほど、強烈な吸引力を持って彼は日向を惹き付けた。 泥沼の中に咲く、真っ白な蓮の花。 若島津という人間を、何としても手に入れたい。 その身も、心も、すべて。 自分のものに。 あの夜、雷光に照らし出された若島津の泣き顔。 『…好きなんだ、……日向が…っ』 一瞬遅れて響き渡った轟きに紛れた声を、日向は暗い歓喜の叫びと共に聞いた。 彼は今まで見せたこともないような辛そうな表情をして日向を見上げ、もう一度、唇の動きだけでこう言った。 『……好きなんだ』 その言葉に、表情に、眇められた濡れた瞳に、湧き上がる暗い欲望が形を成した。 透明な、どこまでも綺麗な若島津の涙。それが伝い落ちる頬に、まるで慈悲を差し伸べるかのように日向は手を伸ばした。 『――それなら、』 お前を、全部、俺に寄越せ。 口付けると、若島津は身を強張らせた。信じられないと言った表情を一瞬だけ見せて、そのまま辛そうに眉を顰めながら瞳を閉じた。 睫に溜まった涙が一筋、頬を伝って唇を濡らした。重ね合わせたそれで零れ落ちる熱い雫を感じて、日向は己を支配する満足感にひどく高揚した。 好きだと告げた若島津に何の言葉も返さないまま、勢いに任せたように彼を抱いた。 あの日から若島津が見せるようになった、どこか不安げな表情。 それが自分のせいであるのを知っている。日向の気持ちが、本心が見えなくて、一挙手一投足に可笑しいほどに翻弄されているのが判る。まるで、脅えているかのように。 それを見ながら、日向は己の身の内に抱く欲望がエスカレートしていくのを感じていた。 もっと、傷つけたい。 深く傷つけて、自分という存在を彼に刻み込みたい。 そして、同じ泥に紛れさせ、彼を穢してしまえば。 果たして少しは、この世界を受け入れることができるのだろうか。 「お前さ、最近俺に冷たいよな」 突然ぶつけた言葉に、若島津がわずかに動揺したのが判って、日向は喉の奥で小さく嘲笑った。 騒がしく、怠惰な空気の流れる昼休み。ざわついた、いつもの光景。 他愛もない言葉遊びに、言われた本人より周囲にいた人間たちが先に興味を露に言葉を挟む。 「日向ァ、何か若島津怒らせたのか?」 「何?お前、嫌われるような事でもしたわけ?」 「いや、そんな覚えもないんだけどな。あの夜の事は同意の上だったし」 冗談だと分かっている上での悪ふざけ。しかしそんな会話一つでさえ、若島津が可笑しいほどうろたえたのが伝わってくる。 「おっと、ついにやっちゃったわけ?どうだった?」 「いやもうサイコー。今度貸してやろうか」 「うっわ、こんな事言ってるよ、どうするよ、若島津?」 視線が集中し、若島津はその綺麗な眉を顰めた。 「…いい加減にしろよ」 付き合いきれないという表情で、何も感じていないかのようなポーズを取って見せる。 しかし、自分には彼の心の内が手に取るように読める。若島津には、こういう冗談を笑って流せるほどの余裕はない。後ろ暗い事実があるだけに、なおの事。 そして、彼は苦悩するのだ。日向の本心が掴めない不安。周囲を憚る関係への罪悪感。それに苛まれながら。 「あ、おい、若島津?」 「怒ったのか?おい、冗談だって」 突然に席を立った若島津に、友人たちが少し慌てたようにその後姿に声をかけた。 怒ったというよりは、いたたまれなくなったのだ。昨夜の、あの寮の密室での情事を思い出したのかもしれない。 「アイツ、ああいう冗談嫌うからな」 苦笑しながらおもむろに席を立った日向に、 「分かってて日向も悪ノリすんなよ。可哀想じゃんか」 その場で何を言うでもなく会話を聞いていた反町が、少し咎めるような口調で言った。そうだな、とそっけなく笑った日向に、更に言葉が投げられる。 「お前って悪趣味。若島津苛めて楽しんでるみたいに見えるよ」 反町の声を背中で聞きながら、日向は教室を出て行った。冷たい愉悦の笑みが浮んでいるのが自分でも分かる。 楽しんでいる。そう、それは確かに当たっているかもしれない。しかし、苛めるなどという生易しい表現が当て嵌るだろうか。 若島津の視線を、思考を、常に自分に向けさせていなければ気が済まない。いつでも自分のことを考えさせて。 獲物を追い詰めて、この手の中で息の根を絶つ興奮にも似ている。 彼の存在自体、壊してしまいたいとさえ思うこの衝動は。 何度抱いても、最中にどれだけ屈辱的な言葉を言わせても、未だ彼は真っ白なままこの泥沼に咲いている。 その清らかな白い花弁を、この手で握りつぶしたい。散らして、踏みにじって、日向なしでは息もつけないほどに支配して。 早く。 一秒でも早く。 同じ泥で穢してしまわなければ、この衝動は収まらない。 人気のない屋上に上がる階段を、殊更ゆっくりと登っていく。 若島津は、きっとここにいる。ここが彼の逃げ場所だというのはすでに知っていた。日向からは逃げられないのだと、彼はもう気付いているだろうか。 薄暗い踊り場。錆付いた重いドアを開けると、目を射る外光と共に湿った風が流れ込んできた。 雨が降りそうだった。 あの日聞いた雷鳴が、耳の奥で蘇る。 「若島津」 フェンスに寄りかかり、ぼんやりと周囲の景色を目に映していた若島津が、その声に驚いたように振り返った。慌てた表情。日向はまた冷たく見える目をして嘲笑った。 「どうしたんだよ?いきなりいなくなって、あいつら気にしてたぜ」 「……」 いかにも友情を思いやったように作られた言葉に、若島津は気まずそうに視線を泳がせた。 「あんなの、いつものあいつらのくだらない冗談だろ。バカ正直に怒るなよ」 俯いた若島津の表情は判らない。 早く。 「あんなふうに揶揄かわれていちいち反応して、まるで、本気で恋愛でもしてるみたいじゃねェか」 冷たく言い放った言葉に、若島津は顔を上げた。間近でその瞳を覗き込みながら、ひどく冷酷な笑みが上がってくるのを、日向は自覚した。 言葉のトーンとは裏腹に、酷く優しい仕草で若島津の頬に手を沿え、唇を塞ぐ。 その長い睫を震えるのが、間近で感じられた。 早く。 一秒でも早く、 「ひゅ…が……ッ」 制服のズボンからシャツを引き出して背中から素肌を探ると、合わせた唇の合間から焦ったような声が聞こえた。 「俺たちがヤるのに、大した意味なんてないだろ」 止めを刺すように直接耳に吹き込むと、若島津は苦痛に耐えるように瞳を眇めた。絶望を映し出す、その表情。 冷えた身体は、すぐに日向の熱に覆い込まれて温度を同じくした。首筋に歯を立てると、若島津が脅えたように身を竦めたのが触れ合った箇所から伝わった。 いつでも、彼に自分を刻み付けたい。この底の知れない支配欲に、眩暈がしそうだ。 雨の一滴が落ちてきて、日向は目を眇めながら空を見上げた。 降り注ぐ冷たい雨。 あの日聞いた雷鳴。 闇を切り裂く光の筋。 若島津の頬に落ちる雨が、涙のようにも見えた。 あの日と同じ、透明な雫。 荒い息を一つ付いて、それを唇で吸い取る。 いつかそれは、日向を濡らす慈雨の雨を成り得るのだろうか。 泥を洗い流す清らかな水に。 不意に沸き起こった切なさにも似た情動が胸を締め付け、日向はそれをかき消すように強く彼の身体を抱きしめた。 抱き返される若島津の腕を、切望しながら。 真っ黒い心の中 目を凝らしたら 正直な気持ちはかすかに見えた気がした |
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end / 2003.11.5 |
……これは…何かの罰ゲームで書いたものでしたか…?
いや、課せられたノルマだ、ノルマ。
若島津を振り回す日向』副題『若島津が自分を好きなのを知っていてわざと振り回す、余裕のある日向』(下線ポイント)
…ま、書けないからこそノルマになる意義があって、ですね……