約12時間のフライトを終え、空港で出待ちの煩わしい報道陣を適当な笑顔であしらって、あらかじめ協会が手配しておいてくれた車に乗り込んだところで、若島津はようやく息をついた。 おりしも、時はワールドカップ2ヶ月前。世間が騒ぐのも分かるが、帰国するってだけで空港にマスコミが大挙するなんて、日本は今よほど平和らしい。まぁワールドカップ目前に全く注目されないってのも、それはそれで問題なような気もするけれど。 車窓を流れる景色に目を移すと、途端に日本に帰ってきたという実感が沸く。 立ち並ぶ屋根の形や、夕暮れの色。帰りたいと思ったことが全くなかったとは言わないけれど、あの時帰っていたなら、こんな気持ちで日本の風景を眺めることはなかったのだろうと思う。 ――信頼関係とかね、言葉の壁もあるし、GKっていうポジションは特にいろいろと難しいでしょう。 イギリスへ移籍したばかりの2年前。日本から取材に来た記者にそう言われて、頷くには結構な勇気が要った。勇気と言うか、プライドと言うか。 それでも、2年目のシーズンでスタメンに定着し、成功していると言えば、10人に7人は頷くほどにはなったと思う。こうして、ワールドカップに合わせた代表の試合に毎回呼ばれるほどには。 成田から更に2時間半。すっかり薄暗くなって、いい加減肩も腰も凝り固まった頃、車は目的地に着いた。 目的地。 その名を日本代表合宿所。サッカー専用の施設で、代表合宿はほとんどここを使っている。ちなみに、まだ出来て間もない。海外に移籍した若島津は毎回参加しているわけではないので、実は馴染みが薄かったりする。ちゃんとした芝のサッカーグラウンドが4面あって、照明設備も完璧で、専門の栄養管理をしてくれるコックがいて、ええと、あと何だっけ? とにかく、まぁ出来たばっかりだけあって、建物は綺麗。 大金を注ぎ込んで作った関係者が聞いたら泣き出しそうな感想を抱きながら、若島津は疲労と時差ボケがミックスされて朦朧とした頭で、ぼんやりと敷地に目を向けた。 一つだけ、グラウンドに照明が点いている。ピッチ整備か、はたまた誰かの自主トレか。緑の芝が綺麗に揃った明るいグラウンドに目を凝らすと、見覚えのある背中がちょうどゴールにむけてボールを蹴り込んだところだった。ボールの軌道に合わせてネットが揺れる。そこで車のエンジン音に気付いたのか、無人のゴールにシュートを決めた人物が振り返った。 ――あぁ、やっぱり日向か。 若島津より4歳年下で、昨年、現役高校生で代表入りして世間に話題を振り撒いた若手FW。当の本人は、だから何だとでも言わんばかりの態度で、またそれがエースの持ちうる資質だの、分かるような分からないような事を言われてたっけ。 彼に会うのは久しぶりだった。確かクロアチアとのアウェーでの親善試合の時以来だから、かれこれ3ヶ月振り。 あぁ畜生。もしかしてあいつ、またちょっとでかくなったかも。いつまで成長期なんだよ、全く。 「よう、お帰り」 車を降りて大きく伸びをしていると、その日向がゆっくりと近付いてきた。相変わらずの、この生意気な態度。 「何だ日向、何かミスして一人で居残り練習か?」 からかうように言うと、憮然とした表情を見せる。普段の尊大な態度とのギャップが相変わらず可笑しくて、若島津はここで何故かまた、自分が日本に帰ってきたのだという妙な実感に襲われた。 日向とは出身校も違えば4年という年齢差のせいで、選手権でもすれ違い。その上、彼がプロ入りした年早々に若島津がイギリスに移籍したため、実際に公式戦で対戦したことはない。 それでも、こうして合宿で、例えば紅白戦なんかの試合をしてみてよく分かった。GKにとって、こいつは一番嫌なタイプのFWかもしれん。 気がつくと、マークを上手く外していつの間にかゴール前にいる。卓越したゴール感覚とか、50年に一度の逸材とか、そんな事が書かれている記事はよく目にした。 まだ19歳。末恐ろしいよ、俺は。もしポジション被ってたりしたら、確実にコンプレックスに悩まされるんだろうな。 恵まれた体格に、恵まれた資質。それが日向の努力の上に成り立ったものだとは、分かってはいるけれど。 少しぼんやりと彼を眺めていたらしい。視線の先で、日向が居心地悪そうに身じろいだ。 「あんたが成田に着いたの、夕方のニュースで見たから、そろそろ着く頃かと思って待ってたんだろ」 「それはわざわざのお出迎えどうも。でも言っとくけどな。俺は長旅で疲れてんだからな。今日はお前の練習には付き合わないよ」 呆れたようにそう言うと、違うっての、と笑いながら、日向は車のトランクから出された若島津のスーツケースを率先して受け取った。 「いくら俺でも、これからシュート練しようなんて言わねぇよ」 どうだかね。こいつに付き合って度を越して、何度コーチに叱られたか。 ――コンディション調整ってもんがあるだろう。今時、高校生だってそんなこと知ってるぞ。 お説はごもっとも。若島津だって分かってはいる。しかし、一旦日向とボールを追い始めると、時間の感覚なんて忘却の彼方へ行ってしまうのだ。 一度くらい、真剣試合で対戦してみたかったと思う。そしたら、また何か違ったかもしれない。 もしかして、もっと強くなれたかも、自分はもっとサッカーが上手くなっていたかもしれない、とか。 自分で掴み取った今の状況に、不満があるわけではないけれど。 「そういえば、飛行機の中でお前の記事読んだよ」 スーツケースを引いて真っ直ぐ宿舎に向かう背中を眺めながら、若島津はふと思い出して前を歩く彼に声をかけた。 「え?」 「お前、ワールドカップで得点王目指すって言っただろ?」 冗談めかしてそう言うと、だが日向からは想像していた反応は返ってこなかった。 「日向?」 「……言ったよ」 わずかに言い淀んだ口調に違和感を感じて、日向に数歩近づくと、どこかなげやりにも聞こえる声が続いた。 「言ったよ。それくらい言っとかねぇとマズイだろ。仮にもエースストライカーとか言われてるし」 そう言って苦笑する。今まで見たことのない日向の雰囲気に、若島津は思わず足を止めた。 「……どうしたんだよ、お前」 「別に、どうもしない」 そう言いながらも、日向は若島津の顔を見ようともしない。やがて、逡巡するような気配の後に、彼はようやく口を開いた。 「ワールドカップワールドカップってさ、あちこちいろいろ言われてさ、一体何なんだろうな、ワールドカップって」 思いもよらない日向の言葉に、若島津は思わず彼の顔をまじまじと見つめてしまった。 「あんたは?出たい?ワールドカップ。ずっと出たかった?」 突然向けられた質問に、一瞬答えに詰まる。 出たいか、と聞かれれば、そりゃ出たいと思う。でもなぜなのか、それを問われれば明確に答えることは難しいかもしれない。 一番大きな大会だから、強い相手と本気でぶつかれる機会だから、もっとサッカーが上手くなれるだろうから、日本の代表として選ばれて、今まで突き進んできた道が正しかったと確信できるはずだから。 それらすべてであって、けれどすべてではない気がした。 そして、どう答えてもきっと、日向が欲しい答えではないだろうとも。 沈黙に耐えかねたのか、口を開いたのは日向の方が先だった。 「まぁそんなの、今更だよな」 そう言って、また苦笑する。やけに大人びた表情で。 「そんなこと、今更考えても仕方ないってのは分かってる。だから、やるなら出るし、出るなら点入れる。それが代表での俺の仕事だってんなら、得点王くらい言っとかないとマズイだろ」 ――代表での仕事。 日向がA代表に入って、やっと一年。 若島津も参加していた日向の初代表合宿。不慣れなコンビネーションで、思う通りに動けずに苛立っている彼を何度か見た。サッカーはチームプレイだと、監督に怒鳴られていた姿。あれから合宿や試合を重ね、ある程度の問題は解決されたと思うが、日向の中で何か納得できない部分があるのかもしれない。そう思わせる口調だった。 「…お前、代表でサッカーすんの、楽しくない?」 聞きたかったのは、そんな単純な響きを持つことではなかったはずだ。しかしその時の若島津は、推し量った日向の気持ちをそんな言葉でしか表現することが出来なかった。 「嫌じゃないよ。一緒にやってると、やっぱみんなすげぇって思うし」 それに、と、急に日向は表情をガラリと変えた。 「それに、代表だとあんたが帰ってきて、一緒にプレー出来るし、その間ずっと一緒にいられるしさ」 先ほどまでの、どこか思い詰めたような雰囲気とはうって変わった軽い口調。その変わり身の早さに少し呆れる。 ――なんじゃ、そりゃ。前半はまだいいけど、後半、なんかニュアンスおかしいぞ、お前。 人が心配してやれば、全くこのガキは。 「日向、お前、単にビビってんだろう」 報復を込めたつもりで言ったのに、またもや日向からは思う通りの返答は返ってこなかった。 「……そっかもな。もしかしてビビってんのかも。って言うか何か、俺はいつも通りにやってるだけなのに、何か、マスコミとか、そういう周りが違う気がする」 ここでまた、失礼ながら若島津は思わず絶句した。 日向がそんなことを考えるような繊細なところがあったなんて、思ってもみなかったというのが正直な感想か。 どう返せばいいのか分からず、ただ日向の顔を見つめていると、彼は左手で顔を覆って小さく舌打ちをした。 「チッ…、カッコ悪ィ。あんたにだけはこんな事言いたくなかったのに」 「何だよ、それは」 かろうじて、そんな言葉が口を突いた。それに対しての日向の返答はなく、立ち止まったままの若島津を置いて、彼はスーツケースを引っ張って、さっさと玄関のドアをくぐってしまった。その後姿は、全くいつもの日向と同じように見えた。 お前、ナーバスになってるのか、全く動じてないのか、ハッキリしろ、ハッキリ。 でももしかして、そんな不安定さは年相応ってとこなのだろうか。考えてみれば、つい1年前まで高校生だった彼が、ここにきて日本のエースストライカーだ何だと持ち上げられれば、誰だって戸惑いくらいは感じるのかもしれない。 単にビビってるわけじゃないにしても、それなりに揺れ動いているわけね。周囲とのギャップに戸惑うなんて、昔から騒がれてるくせにそれこそ今更とも思うけど、意外と可愛いところもあるんじゃないか。 ――あ、ヤバ。今、俺の顔、笑ってるかもしんない。 気配に気付いたのか、日向は振り向いて不機嫌そうに言った。 「何笑ってんだよ?」 「いや、別に」 大いに悩め。それを乗り越えたら、お前はきっともっと強くなる。 まぁ本番まで引き摺ってたら、容赦なくぶっとばすけどね。 「……。どうせ、ガキとか思ってるんだろう」 拗ねたような口調に、若島津はついに吹き出した。 そういうこと言っちゃう辺りが、ますますガキくさい。しかしここでそれを正直に日向に伝えるのはさすがに憚られたので、代わりに、ズカズカと前を歩く日向の背中に向かって声をかけた。 「お前ならなるよ」 「え?」 「得点王。その気でがんばれよ。頼りにしてるからな」 「……。」 振り返った日向は、照れたようにも怒ったようにも見える顔をして立ち止まり、一瞬押し黙った後、ボソリと言った。 「……あんたってさ」 「ん?」 「繊細そうに見えるくせに、微妙な男心ってのが結構分かってないよな」 「……ハァ?」 「まぁいいや、お休み」 今度は一体何の話なんだ?何が微妙な男心だ、全く。人がせっかく励ましてやってんのに、何を怒っているのやら。 本当に、何を考えているのか理解に苦しむ。ジェネレーションギャップというより、あれは日向の元々の性格のせいだろう、絶対。 それでも。 まぁそれでも、少しは何かふっ切れた顔になったように見えたので、取り合えずは良しとしよう。 「お休み。あ、荷物サンキューな」 遠くなっていく背中に声をかけると、彼は振り向きもしないまま、返事の代わりに右手を軽く上げた。 そんなカッコつけたしぐさは、10年早い。 しかし、どこかそれが似合っている辺り、ますます生意気で気に入らない。 →印象派さま発行「PASSION2002」へつづく |
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end / 2003.11.1 |