聖なる夜に不浄の祈りを
遠くから雪を踏みしだく音が聞こえて振り向くと、夕刻の薄闇の中に紛れることを決然と拒否するように輝く金髪が見えた。
向けた視線に気付いたはずなのに、彼は表情も変えずにそのまま足を進め近づいてくる。重みの違う二本の足で、白く覆われた大地を一歩一歩踏みしめて。立ち並ぶ墓標以外に風を遮るものなど何もない、この場所に。
彼の長い金髪と同じように、自分の身に着けている黒いコートの裾が風に合わせて翻る。
「やぁ、鋼の」
目の前でぴたりと立ち止まった彼にそう声をかけるが、エドワードはつい、と一瞬視線を上げただけで何も返事をしなかった。
代わりのように、鋼の手に持っていたマフラーを無造作に首にかけられる。見覚えのあるそれは指令部に置いてある自分のもので、彼がそこに寄ってきたことが知れた。
「こんな寒い中、んな薄着で突っ立ってんじゃねぇよ無能」
開口一番の憎まれ口に、相変わらずだ、と苦笑する。そういう彼も普段とさして変わらない防寒具しか身に着けていないが、それを言葉で指摘する前に先手を打つように睨み上げられた。
どうしてここに居ることが判ったのかなど、彼が指令部に寄ったのなら答えは聞かずとも明白だ。昔からずっと傍にいる有能な副官の彼女ならば、今日自分がここに来ていることを知っているのだろう。
布を一枚首元に纏っただけで、先ほどまでとは暖かさが格段に違った。そして、自分がいかに冷え切っていたのかを知った。
「ありがとう」
白く曇った声は、吹き付ける風に攪拌される。隣に立ったエドワードは、しばらく黙って冷たい石に刻まれた名前を見つめていた。闇が訪れても、積もっている雪のせいか周囲は奇妙に明るく、それが彼の金髪に反射して仄かな光源のように輝いて見えた。
俯き気味に押し黙っていたエドワードが、不意に呟くように言葉を発した。
「雪降ってきたぜ」
言葉の意味に気付いて視線を上に上げると、空からまるで白い花びらのようなものが静かに落ちていた。そのままじっと見つめていると、目が眩むようだった。
「何もこんな寒い日に墓参りに来なくてもいいんじゃね?」
「…そうだな」
見透かすような視線を向けられて、思わず、ふ、と笑みを漏らす。
「いくらクリスマスだからって」
憮然とそう言い捨てた彼に、突然右手を掴まれた。
冷てぇ、と言いながら、繋いだ手をぎゅっと握ってくるその子どもらしい体温の高い掌が酷く心地良かった。
「別に、クリスマスだからという理由でここに来たわけではないさ」
「じゃあ何?」
真っ直ぐに見上げてくるその金色の視線も熱くて、それに触れたら暖かそうだった。
「別に、さしたる理由などない。しばらく来ていなかったから」
それだけだ、と告げた言葉を、彼が信じているとは思えなかったが。
「カミサマが生まれたっていう日に中佐のトコ来るなんて、あんたらしいつうか…」
呆れたような口調が聞こえたのと同時に、繋いだ手を強く引かれる。
「だから違うと…」
「ほんとのカミサマなんて信じてないくせして」
ぶつかるようにして触れ合った一回り小さな身体から、仄かな熱が伝わった。
「君もだろう?」
そう問い返すと、彼は苦笑のような笑みを見せただけで、返事をしなかった。
雪が静かに降り落ちて、周囲を流れる風の音さえも吸い取っていく。
―――ほんとの神様。
ならば、偽の神様は。
確かに、あれは神への信仰にも、どこか似ていたかもしれない。悪夢のように自分を追い立てる地獄の中で、縋るべき神。
あの戦場では、ヒューズの存在は支えだった。自分が積み上げた屍の山に足を取られる中、唯一差し出された狂気を払いのける手。道に立ち塞がる茨を、出来る限り払いのけようとしてくれた手。
それは、今この冷たい雪の下で眠り、もう二度と動くことはないけれど。
エドワードの言うように、神が生まれたというこの日に、ここを訪れたのは。
彼のことを、考えたのは。
彼の眠る場所に立って。
会いたいと、思ったのは。
「鋼の」
ほとんど唇の動きだけで呼びかけたのに、肩先で瞬く金色の瞳がこちらに向けられる。雪が降り積もる夜は酷く静かで、そんな囁き声ばかりか、身動く音さえも響きそうだった。
「君は、どうしてここに?」
彼はそれにも答えを遣さず、見慣れた赤いコートのポケットに繋いだ二人分の手を差し入れた。厚くはない布地の中は外気とさして違いはなかったが、彼の生身の手の暖かさが更に強く感じられたような気がした。
「俺は、カミサマは必要だと思ってるよ」
肩口から聞こえた意外な言葉に、思わず視線を向ける。見つめた先で長い金色の睫に雪が引っかかって、彼が数回瞬きすると、それはそっと零れ落ちた。
「ほんとのカミサマはさ」
言葉が紡がれるごとに、彼の口元を白く曇らせる。
「罵るために存在してんだよ」
だから、いないとけっこー困るだろ。
墓標に視線を向けたままそう言って、彼は苦々しく笑って見せた。酷く大人びた顔だった。
ふ、とつられたように笑みを零すと、冷え切った身体がまた少しだけ暖かくなった気がした。
「そろそろ帰ろうぜ。あんたが風邪引いて、報告書見てもらえないと困るし」
「君もだろう。そんな薄着で」
「俺は大丈夫、あんたと違って若いから。つか、中尉にこれ以上心配かけんな」
ぎゅっと手を握られたまま、ゆっくりと歩き出し、
「悪かった」
偽物の神の、安息の地を後にする。
「俺じゃなくて中尉に謝れ」
「そうするよ」
苦笑を浮かべ、エドワードに引かれるままに足を踏み出した。
肩越しに振り返って、墓標に積もる雪景色を眺める。
雪はこのまま降り止むことはなく、朝にはきっと彼の墓標をも清廉な白で隠してしまうのだろう。
この地を、静かに覆い尽くすのを見守って。
神を罵る不浄の地に、暖かい左手を持った彼と共に帰る。
墓地を仕切る簡素な門の傍まで足を進めると、どこかの店先から微かにクリスマスソングが聞こえた。
白く煙る息の中で、それを呟くと。
エドワードは、また大人のような顔で笑って、同じ言葉を返した。
―――メリークリスマス
'07.12.19
クリスマスネタなのに墓参り。しかも仄暗い…。