子どもたちを責めないで2 初対面編
『大佐』の本名は、このアカデミー内で有名な、あのロイ・マスタングだった。
というのは実際会って始めて知ったが、その記念すべき初対面の時、エドワードにはそんなことを気にかける余裕などまるでなかった。
彼の名前は、以前から知っていた。
同じ学内と言っても専門分野が微妙に違い、よって研究棟もかなり離れているにも関わらず、その名はエドワードの周囲でかなり頻繁に挙がっていたので。
若くして大気化学分野の権威と謳われ、20代後半で助教授にまで上り詰めたという彼の噂は、しかしその華々しい経歴と共に、若干の悪意ある有名税を伴ってエドワードの耳に届いていた。
地位と金と卓越した頭脳を有し、ルックスも良く如才ない。身のこなしはスマートで醜聞に値する趣味はなく、概ね温厚で寛容、フェミニスト。加えて独身。
女性にとってこれ以上ない高条件は、しかし同性にとっては無条件な敵視に値する脅威だ。男子学生の多いこのアカデミーではモテる男というだけで初めから嫌われる運命にあり、ある程度白眼視されるのは致し方ないとエドワードも思う。
彼も例外ではなかったようで、漏れ聞こえてくるネガティブな噂は、概ね男子学生を媒介として囁かれていた。
いわく、女癖が悪い。
それが一番多く、世間に流布されているもののようだった。
見かけるたびに違う女と歩いている、から始まり、図書館で赤毛の女を泣かせていたのを見た、事務員の半分は彼に食われたことがあるらしい、幼い女の子を車に乗せていたのを見た、あれは隠し子に違いない(ロリコン説が出ていなかったのはまだ常識的と言うべきか)、彼を巡って外部の女が構内に入り込み、殺傷事件を起こしたことがあったらしい、に至り。
ついには、あの若さでの有り得ない地位は教授の爺共に自らの身体を売って得たものだという話まで出た日には、あまりにセンセーショナルにエスカレートする噂を前に、マジかよ、と顔をしかめた覚えがある。
真偽そのものより、そんな噂がまかり通るような人物とは一体どんな男なのか、といった観点で。
いずれにせよ、狭い世間では能力のあるものは大なり小なり叩かれるということを身を持って知っていたエドワードとしては、それらすべて眉唾ものだとほとんど聞き流していた。
というより、件の人物にさほど感心がなかったので、適当に相槌を打って終わらせるということができていた。
ロイ・マスタングという人物には、関わらないほうが身のためだ。
そんな教訓だけは、しっかりと頭に刻み込んで。
しかし、思い通りには進まないのが人生だ。
それをエドワードは、齢16にして再び身を持って知ることとなった。
石造りの長い廊下の先に、その姿を見つけた。
細身で背もそれほど高いほうではないのに、姿勢が良いせいでいつも実際より若干長身に見積もられるその後姿。方向からして研究室へ戻るのだろう。歩調を速めてそれを追いかけた。
アカデミーのクラシカルな廊下は、いつも足音をわずかに吸い込んでから壁へと反響させる。追いかける足音が彼にも聞こえているはずだが、自分だと気付いただろうか。
本来この棟には用事がないはずのエドワードがここにいるとは思ってもいない、と考えるのが自然だとは分かってるけれど。
「よう、大佐」
ようやく手を伸ばせそうな距離にまで追いつくと、彼は眉間に皺を寄せながら振り返った。
「その名前で呼ぶのはやめろと、何度か言ったはずだが?エルリック」
「あー、悪ぃ」
横に並んで頭を掻きながら困ったように言うと、彼は若干表情を和らげる。
「でも、大佐は大佐なんだよな」
「私だと分かったら、匿名にしている意味がないだろう。…鋼の」
わざと付け加えられる呼称にぐっと詰まると、彼はもう少しわかりやすく笑顔を作った。
陽射しは夏に向けて急速に勢いを増してきているのに、彼の研究室へと続くこの道はいつもどこかひんやりしていて心地が良い。冬は底冷えして死にそうに寒いぞ、と彼は大袈裟でもなく真面目な顔をして言っていたので、それを感じる日がエドワードはどこか楽しみな気がした。
厚い石壁の廊下に、小さく取り付けられた窓から午後の光が差し込む。それが彼の黒い髪に反射して、エドワードは僅かに眼を細めた。
彼とのファーストコンタクトは学部内ネット、つまりコンピューターの中だった。
このアカデミーの専門は、広義で理系。物理学、化学、数学などを専攻する学生が集まり、それぞれの専門に関する研究を行っている。
さまざまな見地から意見を取り入れ、広い視野で研究を進めることができるようにとアカデミー側が用意した媒体。それが学部内ネットワークというものだった。
その名も『錬金術師友の会』。
どういうネーミングだよ、と初めて見た時は思ったが、それには由緒ある由来があったと後で知った。
もともとこのアカデミーの歴史は古く、平気で千年くらい遡る。秩序だった科学理論などない時代、錬金術師と呼ばれる今でいう科学者が多く住み着いたこの地に、学問として確立させて系統立てようとした人々が作った施設がこのアカデミーの始まりだったと、入学に際しての学長の長い話の中にあった。…気がする。その五百年くらい後になるとここは主に貴族の子息たちが学問を学ぶ場であったらしく、そのせいか建物が古いわりにやけに細部が豪華で重厚だ。
何はともあれ現代、ここの学生にとってちょっとした便利サイト『錬金術師友の会』。
使い方としてもっとも一般的なものは、ある学生がその研究内容に関する意見が欲しい、何々に関する資料を知ってたら教えて欲しい等と書き込み、それを見た別の学生や講師がそれに対して返事を入れる。そうやってお互い協力し合い研鑽していこうという、実に高尚かつ効率的な志の元、それは作られた。
時々、美味い煮込み料理の作り方なんていうものも載っていて、どういう意図があるのか首を傾げざるを得ないものも見かけるが、それ以上にエドワードには不思議なことがあった。
それはすべて匿名、いわゆるハンドルネームというものを使って利用されていることだ。
彼と実際会って何度か話をするようになって、エドワードは一度その疑問をぶつけてみたことがあった。
「まぁあれは伝統的にずっとそういう形なんだ、と言うしかないな」
少し考えるそぶりをして、彼はコーヒーを入れたばかりのカップを手に取った。
「だいたい『錬金術師友の会』っつー名前もすげぇよな。誰が考えたんだよ」
「それも昔からなんだそうだよ。もっとも昔はコンピューターなんて便利なものがあるわけじゃない。実際に会って議論する会合の愛称みたいなものだったらしいがね」
助教授の地位を得ているだけあって、彼はさすがにその辺りの成り立ちに詳しかった。
「じゃあ、昔は実際会って話してたってことだろ?それがなんで今は匿名?」
「さぁ、いつからそうなったんだか、それは知らないな」
そう言って肩を竦める。ふーん、と頷いて、エドワードは出された自分用のカップに手を伸ばした。
「でも匿名の方が都合がいいこともある。一番の利点は、私情に捕らわれず情報交換が出来るということだ。象牙の塔では、意図せずできるしがらみが、卒業式後の学内急性アルコール中毒発症の比率よりも多い」
人の悪そうな微笑とともに言われて、エドワードはそんなもんか、と妙に納得した。
実際、目の前にいる人物が良い例だ。今まで悪評しか届いてこなかったロイ・マスタングの名でそこに書き込まれたとしたら、純粋な情報はもしかすると付加される感情の影響を受けていたかもしれない。
「で、あんたはなんで『大佐』なの?」
実際会ってみれば、その名は彼を連想出来るような出来ないような微妙な線だ。その方が本来の意図に沿っているのは分かるが、その呼称を使う理由を聞いてみたかった。
彼の内面に少しでも触れることができるのではないかと、そんな思惑があったのかもしれない。端的に言えば、エドワードは彼のことをもっと知りたかった。
しかしそれらの期待を込めた質問に彼は、曽祖父が軍人で大佐だったからと、ごくあっさりと答えを寄越した。
どこか拍子抜けしたような気分を抱えながら、まぁそんなもんかもしれないと、内心苦笑する。目に見える事象に、いちいち深い意味があることなんてそうそうないのがリアルな真実だ。科学者としては、見えない事象をも推測してその意味を探り取ることが重要だというのも、ある意味真実ではあるけれど。
もう一度ふーんと相槌を打つと、逆に聞き返された。
「そういう君は?『鋼の錬金術師』くん」
「別に、俺も大した意味ねぇよ。今の研究テーマが、鉄鋼の自然還元だから」
それで、と、話している途中で何故かどうにも気恥ずかしくなって、自然に視線が下を向きがちになる。
「そうか。そういえば、君は14歳のときから金属の腐食の研究をしているんだったな。鋼鉄腐食の媒体を変える新説を解いた天才児」
「児って言うな!」
カップに口を付けたまま上目遣いで睨み上げると、彼は軽く両手を挙げて降参のポーズを示した。どこか優雅なそんな気障ったらしい仕草がいちいちサマになっているところは、気に障るというよりむしろ感心さえする。
「その新説は、最先端のエコロジーに繋がって、我々に大きな貢献をしているよ。それを導き出したのが十代の少年だとは、聞いた時は信じれなかったが」
そこで言葉を止めて、彼は意味有り気な視線をエドワードに向けた。
「実際会ってみて、もっと驚いた」
「あまりにもガキで、って言いたいんだろ?!」
予測のつく展開に先回りして言葉の続きを奪うと、彼はおや、とわざとらしく驚いた顔をした。
「そうは言ってない」
「言ってんだよ、目が!」
「いや、こんなに可愛らしい人物だとは思わなかった、と」
「余計悪いっての!」
ムキになって噛み付くと、彼はテーブルに両肘をついたまま微笑む形に瞳を細めてこちらに視線を送った。
う、わ。
簡単にそういう顔すんなよ。
大丈夫、顔は多分赤くなってない。
突然喚き出したくなる衝動を抑えるのはこれで何度目になるのか、エドワードにはもう数えられなかったが。
思えば最初から、この目にやられたのだ。
件のその学部内ネットワークの存在をすっかり忘れていたエドワードだったが、理論展開にどうにも行き詰ったその日、不意にそれを思い出し、申請すれば一人につき一台在学中レンタルしてくれるノートパソコンの画面を呼び出して、あまり期待もせずに形式に則って自分の意図を書き込んだ。
翌日、そこには欲しかった答えに繋がるコメントが書き込まれていた。
相手は『大佐』という人物だった。
そこで、まず数回やりとりをした。新たな質問が出てきてまた書き込んでおくと、またもや『大佐』から返答があった。
そんなことが数日続いたある日、資料として一冊の本を紹介された。専門外のタイトルのついたその本は、多分こうして教えてもらわなければ一生開くことはなかったと思われるもので、確かにこのシステムは便利だなとエドワードは感心した。
しかし図書館に行ってもその一冊がどうしても見つからず、専門書取り扱いサイトのネット検索が弾き出した結果は絶版の一文字。
くそ、と悪態を付きながらその旨を書き込むと、また翌日に彼からの返事を見つけた。
―――申し訳ないが、その書籍は持ち出し禁止なので、研究室までお越しいただけないだろうか。
そう書かれた文面の後に続く簡単な数字は、時間とその研究室の番号を表すものだと簡単に判読できた。
後から考えるとおかしな話だが、その時までエドワードは『大佐』が実際にこの構内にいるということを考えてみたことがなかった自分に気がついた。
それが、どんな人物なのかなど。
指定された研究室番号が、緻密な細工を施した重い木の扉の向こうが、誰のものであるのかもその時まだエドワードは知らなかったのだ。
約束の時間より少し早めにその場所に着いたエドワードは、ノックをしようと持ち上げた手を止めた、
ネットという媒体の中では、知り合い呼んでも差し支えないほどにはやり取りを交わした相手。しかし生身の『大佐』に会うという状況に、我ながららしくもなく少々緊張している自分を自覚して、エドワードは頬に落ちかかる髪をおざなりに直した。
所詮、相手は同じアカデミーの人間だ。もしかして構内のどこかで会っているかもしれない。
案外―――。
その想像を形にする前に打ち切って、一呼吸待って扉を叩く。
中からは、はい、という低い男性の声が聞こえてきた。穏やかなトーンで、どうぞと続く言葉を耳にして、エドワードはその重い扉をゆっくりと開けた。
その部屋の中は随分と明るかった。カーテンと窓を開け放っているせいか、薄暗い廊下を歩いてきたエドワードには差し込む陽光が眩しいほどで、逆光の元に立ち上がる人物の姿はよく見えなかった。
「やぁ、鋼の錬金術師くん」
正体は君か。
と、軽く左手を上げて、徐々に近づいてくる彼を見て。
ようやくその姿をしっかりと捉えたとき、前に立ってその黒い瞳を見返したとき、エドワードは自分が突発性の病気でも罹ったのかと思った。
何もかも、突然だった。
その瞬間、自分の中にある何らかのスイッチが押され、身体に勝手に指令が下されたみたいに。
心拍がうるさいくらいに耳元で鳴ってるし、暑いはずもないのに手には汗をかいて、顔が妙に火照って。
瞳孔の調節が狂ってるみたいに視界はチカチカするし、向けられる深い色の瞳は逆光できらきらして眩しいし、なのに吸い付いたみたいに彼から離れようとしない両目の筋肉は、意思の制御をまるで受け付けようとしない。
彼が、あの良くも悪くも有名な人物だとは、その時はまだ知らなかった。
的確な情報を自分に与えてくれる信頼に足る『大佐』がこんな人物で、更にはあの悪名高いロイ・マスタング助教授だったとは。
三日後、初対面の衝撃から幾分立ち直った気がしたエドワードは、もう一度彼の研究室を訪れた。あの時差し出された研究書がどうにも頭に入りきれず、もう一度彼に閲覧を申請したのだ。
今考えると、彼にもう一度会いたかったという理由の方が大きかったのかもしれない。
エドワードの邪魔をしないよう気を使っているのか、ソファに腰掛けてその本を読んでいる間、彼は静かに机に置かれた書類に目を落としていた。伏せた睫の影が頬に長く落ちているのに気付いて、エドワードは慌てて手元に視線を戻した。
こうして彼の姿を見てみると、確かに幾多の噂はあながち眉唾ものと切り捨てられない部分があると思わずにはいられなかった。
まっすぐな姿勢。整った顔形は、聞き知っている年齢より随分と若く見える。髪と瞳の色は中途半端な黒ではなく、完璧なブルーブラック。優雅に動く指先と、悠然と微笑むその表情。
それだけで、確かに幾多の女性を惑わす材料になりえるだろう。加えて、彼には金と地位と頭脳という付加価値まで付いている。女癖が悪いというのも、あながち嘘ではないのかもしれない。仮に、彼にその気がなくとも、きっと女の方が近づいてくる。
しかも、最悪なことに。
教授たちに身体を売って助教授の地位を得たと噂されるのも。
彼なら有りだ。確実に。
考えるとくらくらする。
その柔らかそうな頬に触れてみたいと思うなんて、やっぱり自分は病気だ。原因不明の突発性の病気に罹ったに違いない。
そうだ、弟に相談しよう。アルならその病名も原因も、一発解明してくれるに違いない。
手元に視線を落としながら、エドワードは自身の混乱を収めるべく必死に戦っていた。
あまりの不測の事態に泣きそうな気分が、きっと表面に出ていたのだろう。
彼は不意に椅子を鳴らして立ち上がり、優しげな顔をしてエドワードに近付いてこう言った。
「君が内緒にしておいてくれるなら、その本は君に一週間ほど貸し出してもいい」
「…は?」
「ただし、それを研究室の外に持ち出したのがバレると、私は厳罰を食らうから」
そう言って、ゆっくりと屈んで、エドワードの耳元で。
「絶対に内緒だよ」
囁くような低い声に、エドワードの心臓はその時、多分最高心拍数を記録したはずだ。
耳元といっても、実際にはそんなに近くはなかったかもしれない。しかしエドワードの心情では、耳元ごく至近距離で囁かれた気がした。
確実に顔が赤くなっていたと思う。けれど彼はそれを気に留めるふうもなく身を起こして、ただ頷くことしかできなかったエドワードにもう一度ゆったりと微笑みかけた。
本を抱えて足早に寮の自室へ帰る道すがら、エドワードはなかなか収まらない心臓を宥めるために、心中で彼に悪態を並べた。
披露された彼の手管と、それにまんまと乗せられた自分に腹が立つ反面、本に夢中になっている自分を思って(勘違いなのだが)こっそりそれを貸し出してくれた優しさを嬉しく思ったのも本当で。
更に収集のつかない混乱の中、その日どうやって部屋に帰ったのか後々考えてもよく思い出せなかった。
頼みの綱のアルフォンスは、確かにその病名も原因も一発解明してくれた。
ただしそれは、治療の手段がない難病といえる類のものだった。
―――兄さん、僕の診断からすると、それは恋だと思うよ。
医学方面に進んだ弟に己に降りかかった症状を説明したのち、笑いを堪えるような声で返ってきた答えはエドワードの耳に第二のラッパを轟かせた。電話口から聞こえるアルフォンスの声が、一瞬遠のいたのを覚えている。
恋。
しかも、一目惚れ。
そんな馬鹿な。
己のアイデンティティ崩壊の危機まで達しかけたエドワードだったが、しかし時間を置いてその優秀な頭脳でよくよく冷静かつ客観的に考えてみると、確かに弟の言うところの、『それ』に落ちた人間の症状にいちいち当てはまっていることを認めざるを得なかった。
百歩譲って、一目惚れなんてものが存在したと己の身を持って証明し、認識の変容を余儀なくされたのはまだ許せるとしても。
その相手がなぜ。
男で、社会的地位も自分よりはるかに上の、かなり年上で。
いや、そこまではまだいい。
と、同性だということをあっさり切り捨てられるほどには、その時エドワードの受けた衝撃の余波は大きかった。
問題は彼自身だ。女たらしで、話を聞くだけで関わりあいにならないほうがいいと警戒した、曰くつきの助教授、ロイ・マスタング。
しかし何日かけても、様々な仮説を立てて否定してもその理論は証明できず、とうとうエドワードは観念した。
そして、開き直った。
次いで、対策を練った。
一目惚れの相手を、振り向かせるために。
相手は大人だ。しかも多分、恋愛の駆け引きに非常に慣れている。いくら自分が天才と謳われても、人生の場数を幾多も踏んだ大人にはどうあっても足掻けない。
爆発的な衝動に任せて彼を押し切ろうと思えば出来ないこともなさそうだったが、それではきっと言い寄る人間の一人としてしか自分を見てくれないような気がした。遊びと割り切られ、必要なときにしか呼び止められない。最悪の予測パターンでは、年齢的なことを盾に軽くあしらわれて終わる。
それではダメなのだ。
彼と作りたいのは、恋愛という形なのだとはっきりと分かったので。
新たテーマで研究に打ち込むように、対策を練ってじっくりと取り組まねばならない。
そのために恥を忍んで弟や幼馴染み、おまけに悪友にまでその本意をぶちまけた。最後の人選に関してはかなり不可抗力な部分があったとしても。
さぁ、対策を練るのだ。
石造りのひんやりと感じられる廊下で、並んで歩く。
視線を合わせるためには見上げなければならない身長差は腹立たしいが、いつか絶対追い越してやるというモチベーションに繋がるのなら、それも悪いことばかりではないと今は少し思えるようになった。
ただ立ったままキスするときに、多少不便に感じるけれど。
「じゃあ、あんたのことなんて呼べばいいんだよ?」
「だから、普通にマスタング先生でいいだろう?」
彼は子どもにするように、ぽんとその掌をエドワードの頭に乗せた。
嫌がると分かっていてわざとやる底意地の悪ささえ、認めるには勇気がいるが、もしかすると自分は好きなのかもしれない。
いつも彼はこんなふうにして、エドワードを怒らせては楽しそうな表情を見せる。
そんな顔も好きだなんて。
あぁ、俺は馬鹿だ。
世間では天才だって言われてるのに。
「絶対言わねぇ!」
「まぁ仕方がない。君の無礼は今に始まったことじゃないからな。とりあえず人前で呼ばなければいいさ」
乗せられていると思いながらも素直に怒ってみせると、更に彼は可笑しそうに笑う。
こんなふうに、甘やかされることも。
一緒に歩いているだけで、こんなふうに浮き立つような気分になることも。
彼に触れたいと思うことも。
いちいち心が乱されて、息切れしそうになるけれど。
恋愛なんて脳内麻薬の作り出す錯覚で、それに振り回されるなんて馬鹿みたいだと思っていたけれど。
そう考えていた頃よりは、多分幸せなのだと思う。
「そんで、今日国立植物園行くんだろ?もうこのまま出られんの?」
「出られる…が、何だ、本当に君も行く気か?」
「なんで?行くって言ったじゃん」
「いや…、あそこのサンプル樹の酸素効率の比較データを取りに行くだけだぞ。君が行ってもつまらないと思うんだが」
「うっせーな。行くって言ったら行くっつの!」
乱暴に言い返すと、彼は大袈裟に溜息を一つ吐いてエドワードの頭に小突くように触れた。髪に絡んだ彼の指の感触が心地良かった。
こんなことでいちいち麻薬を作り出す自分の脳は、本当に馬鹿みたいだと思うけれど。
錯覚でもいいか、と思える自分がいることが何より一番馬鹿みたいで、エドワードは思わず笑った。
「何だ?」
「何でもねぇよ」
即答すると彼は、理解出来んと呟いて肩を竦めた。
「帰りになんか食いに行こうぜ。大佐の奢りで」
「それが目的か」
呆れたような表情を作った彼に、にやりと笑う。
とりあえず、今はこれでよしとする。
アルやウィンリィにそんなことを報告すれば、大した進展もないことをまた馬鹿にされるかもしれないけれど。
ひとまず、今は幸せだ。
end
人は恋をすると誰しもが馬鹿になる。
これこそ、この世の真理かもしれません。
初対面編エド視点。
恋する少年の脚色120%全開。書いてるこっちが恥ずかしい。
アルに対して抱えた責任がない分、子ども扱いされてもエドはいつもよりそんなに怒りません。
エドアルの幼少期のちょっとした過去の事とかお父さんの事とかいろいろ設定は考えたのに。
リザちゃんとか、ロイさんの学生時代からの親友ヒューズ(どうあってもそれは出す!)とか。
ちっとも登場の機会がありませんでした。
でも書いてて楽しかったです。パラレル、難しいけど楽しいなぁ。
あ、研究の専門的なことの突っ込みはノーサンキューで。
御静読ありがとうございました。