新聞歌壇掲載一覧
袴田朱夏・言の葉の床
二〇一八年
理由ならたくさんあるが理由よりなにより君の自死を止めたい
銀閣寺行きの市バスにスペイン語満ちて束の間アミーゴとなる
日が長くなりましたねと君が云い「たね」が芽吹いて春が始まる
二〇一九年
僕がもう信じていないそのことを信じて子らが募金箱を持つ
薄皮をてろんと剥がす夏の夜にへえわたしって透明なんだ
我が名かと見まがう「袴」の字の映える電車広告もうすぐ春だ
初雪がまつ毛にとまる 近すぎて見えないことがあるのだと知る
おはよ雪う雪ござ雪います雪ベッドか雪ら見えるはつ雪
高架下グランドピアノ響かせて一夜限りの星になりたい
未来だけ見ていたいのに過去どもが俺も俺もとフレームインす
やわらかな漸近線が一秒ののちに雀となりたる地面
子のいない理由を問うのならまずは子のいる理由を教えてほしい
出国のゲートくぐればくぐらずに出た難民がテレビに映る
最後まで傘を差さない君だけが最初に晴れに会うことになる
衛星が月という名を持ったときキスや風にも名前が付いた
花びらを忘れたと言いおさな児が十秒止めた春の嵐電
分断のための読点、決断のための句点を。離別の、手、紙。
目くじらも泳げばいいと言う吾子にずっと泳げよ立つな目くじら
パーレンパーレンだれがさいごに閉じますか(((先に)入った人が)勝ちなら
あさがおがポールにからみさみどりのらせん階段、とどかぬ空へ
子が「落ちた」「落ちてる?」と沸く ほっぺたが最初に落ちた人に感謝す
えいえん、でしりとり終える退院の母の腫瘍の取り切れぬこと
しなかった自殺を数え上げた詩は月まで冷やすよわいエーテル
パスポート失くした我にシドニーの巻き寿司「トーキョーロール」はやさし
二〇二〇年
題「家」
しなかった家出のことを思い出ししなかったのになつかしくなる
明々とコールドムーン早朝に窓のしずくを拭く手を止める
Take your mark ぎんいろの翅あらわして泳ぎ手はいま蝶になりゆく
ほどほどの善意をしまう ゆずっても座ってもらえなかった席で
見ましたか手垢のついた言葉という言葉についた手垢の量を
右腕を期限切れまで預かってコインロッカー消毒される
葉桜のほうが好きだという母の手はこんなにも小さかったか
三か月ぶりの乗り換え検索と気づく ウイルス禍の薄まりに
新しい生活様式ままごとに「手はシュッシュッ」を加えおり子は
寝ない子を抱いて歌えば白秋がわたしのために揺らすゆりかご
鷹の爪入れて二秒で火を止めて夏のペペロンチーノを制す
二百ミリリットルを飲むみどり児のからだのどこが二百を容れる
晴れなのに中止になった遠足の踏まれなかったタンポポそよぐ
疾風のかたちになった前髪を直してわたし、風を殺した
早朝に窓を開ければくるぶしに秋がひんやり巻きついてくる
七日目のリトルボクサー沐浴に握りこぶしをすこし緩める
「スーパーのおいもになった」田舎から届く土塊を洗い終え子は
少女ひとり顔がないのに笑ひをりホタルブクロの帽子の中で
鉄柵の向こうに流れゆく雲は米国のものだろうか、嘉手納
読んだ子がアルソミトラの種になり風に乗りゆく植物図鑑
セルフレジの列で待つときセルフレジも私を待っていてかわいそう
子が放つ「なんでやねん」に関西で生きていく実感をもらった
二〇二一年
題「情」
情報も波だと思う飲まれても生き残りたいこの第三波
初雪をかぶった並木道を抜けシュトーレンならナッツねわたし
動物園人間だけが傘を差し残念そうな顔をしている
全部乗せラーメンみたく好かれても飲み干したあとの器がわたし
数えてよこの育児書に「パパ」なしで「ママ」の登場する回数を
滑るたび妻がキュンキュン潤うので羽生結弦に感謝している
治安よき観光地としてシリアあり二十年前のガイドブックに
無限遠が机上に並び解かれいる物理の試験 春間近なり
病欠の子の牛乳を健康な子が一気飲みしてああ世界
回ってる寿司から見れば人間も回っててまだ食べられてない
我慢してしまうのだから国民はウイルスよりも制御しやすい
晩酌はしないに丸をつけるとき誓いとしての健康診断
四歳がいつか帰って来なくなる背中を見せて駆けてゆく路
仕事場に着くころ靴に染みきって雨がわたしの足を舐め出す
レッテルを貼らないようにすることのお連れ様とははるけき呼称
左折するときに梔子香りおりバスの換気も二年目となる
パーキングすべて疫禍に閉鎖されびわ湖の岸になお夏の風
社会的距離を決められそのとおり並んでレジはいよいよ機械
まだ伸びるぐんぐん伸びる豆苗が北斎の波のかたちに伸びる
手をのせてマウスは動く たいくつを切り拓けないこんな小舟じゃ
ザオリクの声の届かぬ天空にはるかすぎやまこういち往きぬ
めちゃくちゃな子らの寝相が天井画の天使の配置になった おやすみ
発表後「欲を言えば」と一時間教授の欲を聞かされている
精神を病んだ精神科医として友はわらうが足音がない
わかるまで叱ろうとするわからないのはわたしだとわかってはいる
二〇二二年
題「時」
あなたから奪わなかった時間には銀杏こんなにこんなにきれい
ひとり寝の練習と言いくらやみに五歳は五分だけ手を離す
あやされた記憶であやすぼくたちは遺伝子でないものでつながる
なぜブリに大根なのかというように妻とわたしが永らえている
誰にでもついていくのに誰の手も届かないから月だあなたは
滑るように暮らしてしまう きみと会う時間のこぶを失くしてからは
まだ寒い春たくさんの花びらの行方のひとつとして君の肩
まだ開いていないまぶたとして空が夜のあいだにわたしを守る
いもうとの春のピアノのわたしにはないテヌートの正しさを聴く
時間には肩がないので後ろからつかめず春が行ってしまった
「お手洗いまで四十メートル」の矢印に東京駅で試されている
「見て」の語を待たず流れる星たちは自分を見てと思いはしない
見下したようにと書けば見下したようでしかない ようにを消した
踊り場として踏む五月 夏までに上りきったら忘れるはずの
リビングに二人で運ぶ ささやかなひかりとしての電子ピアノを
嵐電に乗らずあるけば法面に咲くアザレアの赤ゆたかなり
長男の靴から泥をはがしつつザリガニ釣りの約束をせり
なくてよい飲み会がなくてよい二年だったのにああ飲み会がある
復興の象徴ばかり増えていきむしろ未完の象徴である
カセットを再生すれば風鈴は祖母のむこうの空をあらわす
くもり空 夏と秋とのあいだにはポケットがあり子とよく眠る
コスモスのように照れつつ次に会う場所をわたしに決めさせるのだ
フレミングの右手が試験会場にくるりくるりと花を咲かせる
雷神のごとく二人を叱りつけやがてかなしき妻に戻りぬ
読み聞かせ途中で眠るとうさんは絵本にくらいゆるされたいよ
ぼくが押すEnterキーのEnterは他動詞なのに目的がない
空けられたワインボトルがでこぼこに街を切り取るビストロの窓
二〇二三年
ブラインドが朝のひかりを梳く部屋にわたし以外が整ってゆく
西日さす廊下なつかしひと房の葡萄のように和音こぼれて
じゃあ星に意味はあるかな先生はわたしの涼しさを生きていた
傘を差すほどの雪ではないことを告げても傘を持たせてくれる
終バスはゆっくり停まる乗客の春の眠りを覚まさぬように
花びらをつまみ上げれば散るままのかたちを指になくしてしまう
黒ひげが樽を飛び出すきわに見るさいごの海よおおきく光れ
眠そうに溶けたバターがはつなつのホットケーキを滑っていった
風だった子らを並べてあたらしき一年生の教室涼し
呼び捨てに友とわかれて親どもの知らぬ時間を子が駆けてゆく
物置の屋根に上がった六歳をかつての我であるから叱る
子の動画を父に見せおり百点のテストをかつてそうしたように
「疲れた」と寝ころぶわれに三歳が「つかれおわった? あそぼ」と笑う
黒目から黒目にとどく黒だけが空のむこうにつながっている
龍の尾のうなりをもって窓を打つ秋の嵐もわれを攫わず
二〇二四年
題「光」
やさしいと書けばやさしくなるような気がした つぎは光ると書いた
鰓脚綱枝角亜目の名を捨てて龜の一字はどうだミジンコ
とりどりの子らでにぎわう公園に都会のなかの小都会あり
コンサートあとのあなたと改札をくぐって違う層にわかれた
また夜をあずけてしまう檸檬堂おまえの海は明るすぎるよ
白無垢のような袋をかけられて桃の実はもう空に会えない
旅行記を閉じてはしけの暗やみをあかるい部屋にわかろうとした
平熱に戻るついでに四歳はゼリーのあたらしい味を知る
風のある朝にわたしを追い越してバッタが空を高くしてゆく
おもしろく読まれるように書いてあるからおもしろいからつまらない
水のない海をまっすぐベランダに導いている夜の鏡筒