プレッシャーとのお付き合い
受験生にとって、試験での、あるいは試験に向けてのプレッシャーや緊張は、避けて通れないものですね。ここでは、私の実体験を通したちょっとしたアドバイスを(偉そうに)書き連ねていきます。
1.プレッシャーは、既にそこにある。
2.あなたの目的は何?
3.プレッシャーと共存するテクニーク
4.トレーニングその(1):森田療法
5.トレーニングその(2):「メンタルタフネス(勝つためのスポーツ科学)」
6.トレーニングその(3):仏道(座禅・瞑想)
1.プレッシャーは、既にそこにある。
それでは
試験本番でのプレッシャーとの闘い方
を話します・・・って言ったら、それが既に間違いです。闘おうとしないでください。ガチで闘うには、「プレッシャー」はあまりに手強過ぎます。
そもそも、「プレッシャー」とか「緊張」とかを
闘うべき敵
排除するべき邪魔者
と捉えること自体が、すでに誤った向きを向いてます。
それを受けて、世間ではよく
「プレッシャー」、「緊張」を味方につけて
なんて言われたりしますね。でも、それも違う気がします。プレッシャーを味方にする。これって、既に何か道を究めた人の台詞ですから(笑)。
「プレッシャー」や「緊張」は、闘う敵でもなければ、味方に付ける仲間でもありません。じゃあ何なのかと言えば、
否応なく既にそこにあるもの
です。そこにあるんですから、甘んじて受入れるしかありません。
(注:「甘んじて」=「否応なく」)
おそらくこの頁をわざわざ読みに来た人は、できればプレッシャーに消えてなくなって欲しいと願っていることでしょう。ですが、繰り返します。
プレッシャーは、闘う相手として は手強すぎます。
まず、最初の結論です。
【結論1】「プレッシャー」は既にそこにあるものとして受入れる。
「これじゃあ何の解決にもなってない」って言いたい人もいることでしょう。はい。なってないです。それが、答えです。解決などありません。解決する必要もありません。この頁の目的の一つは、この答えが皆さん“腑に落ちる”よう説明することです。
2.あなたの目的は何?
「不安で・・・」、「プレッシャーが・・・」という類の質問に対する私の回答は、ワンパターンです。
質問:「不安です」
↓
回答:「不安をなくすことは最終目的じゃないでしょ。」
ここに一番の本質があります。
「不安」、「プレッシャー」、「緊張」の排除を“目的化”していまうのがよくある失敗パターンです。取り除こうとすればするほど取り除けなくなり、がんじがらめに足を絡め取られます。
例えばあなたが受験勉強をしている。ところが将来に対する漠然とした不安感が邪魔をして勉強に集中できない。するとあなたは、「不安感」が不快なので、生理的に排除したくなる。そして、「不安です。どうしたらいいですか?」と質問したりする。このときあなたの中では、不安を取り除くことが主目的になっており、真の目的である「受験勉強をする」ことは隅に追いやられています。知らず知らずのうちに、自己防衛本能による問題のすり替えが行われている訳です。
「不安」、「プレッシャー」、「緊張」の排除は目的ではありません。真の目的。それは
「今やるべきことをやる」(受験勉強とか)
ですよね。そこをターゲットにします。
「でも不安がそれを邪魔するんですぅ~」という人が多い訳ですが、それはもうしょうがないので放っておきます。
プレッシャーとの付き合い方の基本とてもシンプルです。
【結論2】
1.プレッシャーは放っておく。
2.真の目的は何かと考える。
まずここをしっかりと押さえてください!
放っておく。何もしない。実は、これが正に“言うは易く行うは難し”で、明日からパッと切り替えて実践したりはできません(笑)。そこで、これから「切り替えるためのテクニーク」を話していきます。
3.プレッシャーと共存するテクニーク
【結論2】:「プレッシャーは放っておく」、「真の目的は何かと考える」は、一朝一夕には達成できません。ではどうするかといえば、答えはとってもシンプルです。「トレーニング」します。
この国では、不安やプレッシャーを乗り越えるための力:精神力、根性、度胸は“生まれ持ったもの”であるという考え方がいまだに優勢です(近年だいぶ変わってきているようですが)。しかし、知力、学力、筋力、体力などと同様、
【結論3】メンタルも、トレーニングによって鍛えられる。
というのが近年の常識です。
私はもちろんメンタルの専門家ではありませんが、「トレーニング」を大きく分けて『3つ』やりました。以下ではその3つに関して、自身の成功体験に基づいて話していきます。
4.トレーニングその(1):森田療法
まず1つめは、私がド田舎の高校生だった頃の話です。あるときふと気づいてみたら「強迫観念」なるものに絡めとられていました。
何か特定の「人」、「もの」、「こと」、「体験」を思い出したくない。でも、そう思えば思うほど、しつこく頭から離れなくなり、忘れよう、頭から消し去ろうと藻掻けば藻掻くほど、ますます頑としてそこに居座ってしまう。これが「強迫観念」です。(細かく言うと「強迫観念」のうち、「雑念恐怖」に分類されるものです。)
これは体験者にしかわかりませんが、かな~~~りしんどいです(もちろん、24時間ずっと居座る訳ではなく、何かの拍子に忘れているのですが・・・)。周りにそのことを言ってみると、「ああ。おれもあるある」という人もいました。物事を「考える」質の人、知性の高い人(笑)は、けっこう冒されやすい症状のようです。
そんなとき、ホントにホントに偶然、ある一文を目にしたのです。それは、高校のある先輩による大学(T大)受験合格体験記でした。
そこには、合格へ至る勉強法マニュアルとかではなく、ご自身が受験期に強迫観念に悩まされたこと。そして、それを「森田療法」によって克服したことが書かれていたのです。
さっそく、本を買って来て読み進めてみました。「森田療法」のことを私ごときが短く要約するなど身の程知らずもいいところであることを承知の上で、その神髄を述べると、次の2つに集約できるかと思います。
1.あるがままの体得
2.作業療法
1.は、自分に起きた全てのことを、そのまま、丸ごと、あるがままに受け入れるという姿勢です。幼気な田舎の少年だった私は、それまで当然のごとく強迫観念に対してガチの真っ向勝負を挑もうとしていたのですが(笑)、そうした考え方が完全にひっくり返されました。
2.は・・・、短くまとめて言うのは難しいのですが、本来なすべき作業を実行することを「主」と捉え、それを邪魔する雑念除去が「副」に過ぎないことを体感すること、とでも申しましょうか。(詳しく知りたい人は、webや書籍にあたってみてください。)
これらは、けっきょく【結論2】に書いたことに極めて近いですね。
~~「森田療法の理論と実際」(金剛出版 岩井 寛・阿部 亨 著)~~
それからは、たとえ受験勉強中に思い出したくない人の顔が浮かんで来ても「いいやいいや勉強しよ」と自分に言い聞かせ、麻雀に興じる最中に過去にやっちまった黒歴史が頭に纏わりついてきても「しょうがないしょうがない当たり牌の読みに集中」と自分をコントロールして、まあどうにかこうにか日々を生き延びて行きました。
「方法論」として知っているだけでは駄目です。あくまでも、実際に「作業」・「活動」を通して、自身にとっての「主」は何であるかを体で感じ取るようにします。これが、日々の「トレーニング」です。もちろん、それが辛く苦しいときもありました。どうしてもまた、「この雑念さえなければ。あの嫌な奴の顔さえ浮かんで来なければ。」という強迫観念に打ち負かされそうになることもしょっちゅうでした。でもその度に、「はい。受け入れて。ほら、作業作業。森田式森田式。」と自分に語り掛けて乗り越える、いや、やり過ごします。
そうこうするうち、けっして雑念が完全に消えてなくなりはしませんでしたが、そいつが襲ってくることに対するの“恐怖感”は、格段にに小さくなりました。
「来るならおいで。森田式に迎えてあげるから。」
そんな境地です。
おそらく、私の抱えていた症状など、心底苦しんでいる人からみれば取るに足らない程度のものだったのでしょうが、それでも私は本当に救われました。あのとき森田療法に出会わなかったら、あのときあの合格体験記を読まなかったら、と思うと、ゾッとします。
また、こうした森田式の姿勢が継続できたのは、尊敬できる先輩が勧める療法だから間違いないという信頼感があったからだと思います。本当に本当に、感謝の気持ちでいっぱいです。
その後大人になり、歳を取り、こうして初老を迎えた今でも、おそらく“完治”はしていないのではないかと思います。今でも時々、“いらっしゃいます”ので(笑)。でも、そもそも“完治”しなくてもべつにいーや、と思えているので、それこそ“ほっぽらかし”です。まあいちおう生きては行けてますし(笑)。
という訳で「森田療法」自体についてはもう何十年も忘れていたのですが、ひょんなことからTwitterなんぞを始め、質問に回答しているうちに、もしかすると役に立つ人もいるのでは?という思いから、こんな頁を書いてみることになった次第です。
う~ん。森田療法は、【結論2】:「プレッシャーは放っておく」、「真の目的は何かと考える」のトレーニング“方法”というより、【結論2】“そのもの”でしたね(笑)。
ちなみに、私が受験数学指導において好んで用いる「あるがまま」というワード。もしかするとここが起源だったのかな~。本人はすっかり忘れていましたが(笑)。
5.トレーニングその(2):「メンタルタフネス(勝つためのスポーツ科学)」
~ジム・レイヤー著~
言い尽くされたことですが、スポーツの勝敗は、“あるレベル以上になると”
自分との闘い・メンタルタフネス
にかかってきます。コナーズ、ボルグ・・・が古ければ、フェデラー、ナダル、ジョコビッチ・・・。彼らが『後のない』追い詰められた状況、例えばブレークポイント・セットポイント・マッチポイントを握られた時に挽回する確率の高さは、統計データを参照するまでもなくテレビ中継を観ているだけで断言できるほど突出していますね。
古来、とくに我が国には、こうした「メンタル・タフネス」、日本流にいうと「精神力」は先天的に備わったもの、もしくは血の滲む“苦行”・自己犠牲によってのみ会得されるものであるという考え方がはびこって来ました。ジム・レイヤー著のこの本は、そうした固定観念を真っ向から否定し、「メンタル・タフネス」を身につける方法論を科学的・体系的・具体的にまとめたもので、30年以上前の当時には画期的なものでした。
本章の以下の記述では、この本のエッセンスをまるで私自らの理論であるかのような物言いで(笑)語りながら、そこに 私 自信のスポーツ体験・指導体験から得た事柄も交えて、現代の方々にも役立つテクニークとしてご紹介していきます。
まず最初に、メンタル・タフネスは、後天的に得ることが可能な「技術」です。性格もとくに問いません。古い固定観念とはあべこべです。もちろん、生まれつきメンタルが強い人・弱い人はいるでしょうが、その差は訓練・努力によって埋められます。
例えばテニスのサービスは動きが非常に複雑であり、初めて自分一人でやろうとしてできる人は、ごく一握りの才能に恵まれた(gifted な)人だけです。でも、ちゃんとした指導者について、あるいは自身で正しく勉強して練習を繰り返すと、例えば 私 のように並レベルの運動神経の人でも次第にできるようになります。そして、そのような『努力の蓄積』によって到達できるスキルの“高み”は、『初めから』、あるいは『すぐに』できた人とたいして変わらないことが多いのです。
では、どうしてメンタルトレーニングはテニスのサービスの技術のように「指導」の対象となってこなかったのか?それは、昔からメンタルタフネスに長けた人は、その状態へと至るトレーニングの過程を無意識に行ってきたので、一般化・体系化されず他者へ伝えることが出来なかったからです。
まあ、テニスのサービスだって、出来ている人はほぼ無意識にやってる訳ですが、「目に見える形がある」ので、できない人へアドバイスをしやすいのです。それに対して
メンタルタフネスは「目に見える形がない」
ので、何をどう教えればよいかが難しかった訳です。
このあたりの事情は、「数学」とも少し似ています。(数学って、頭の中のスポーツですわね。)
著者ジム・レイヤー氏は、そうした困難を解消するため、数多くのスポーツ選手に対する聞き取り調査を経て、試合における選手のメンタル状態を次の2つの観点・2つの座標軸で分類し、メンタルトレーニングの理論化を試みています。
1.心理的エネルギーが強い・弱い
2.楽しい・楽しくない
少し別の表現を用いると
1.気持ちがHigh・Low
2.思考がPositive・Negative
このうち1.の方は単純で、「1.=Low」、つまりそもそもそのスポーツの試合もしくは試験に対して意欲が湧かないのではロンガイです。L-N:気持ちがLowで思考がNegative=「どうせダメに決まってるし、どうでもええわ」ではもちろん勝てませんし、L-P:気持ちがLowで思考はPositive=「やる気しないけどテキトーにやっときゃどーにかなるべ」なんて甘い態度が通用するもんじゃないですよね。
「気持ちがLow」の克服は、診療内科的な領域、あるいはそもそも挑む競技・進む道を変更するところまで遡って考え直すことになります。
緊張すること(High)それ自体は悪ではありません。緊張は、良いパフォーマンスを生むにはむしろ必要不可欠なものです。そこで、以下ではでターゲットを「1.=High」、つまり「気合はみなぎっている」場合に限定して話を進めます。
スポーツ選手の心理状態として理想とされるのは、もちろん「H-P」(1.=High、2.=Positive)です。勝利したいという意欲に溢れていると同時に失敗に対する恐れがない。集中力がみなぎっていると同時に自信に満ち、体はリラックスしている。こうした状態を、ジム・レイヤー氏は
IPS:Ideal Performance State
と呼んでいます。(細胞じゃないよ(笑)。)
- 「ボールがゆっくり見えた」
- 「もう一人の自分が勝手に成功へと導いてくれた」
- 「ゾーンに入った」
- 「神経は研ぎ澄まされ、同時に心は静かで回りがよく見えた」
IPSが実現されると、試合後のインタビューでこれらの言葉が登場します。とくにリストの最後にある「覚醒」と「平静」の共存。これがポイントです。(これは次章で述べる座禅・瞑想時の状態にも通じます。)
問題となるのは、「H-N」の状態です。「覚醒」(High)はしているけれども「平静」を伴っていない。つまり、勝ちたい意欲が旺盛ではあるけれども、結果に対する不安・失敗に対する恐怖に支配され(Negative)、心は波立ち掻き乱されリラックスできず筋肉が硬直化し・・・そして実際に失敗してしまう。これが、“一流”に達していない並のプレイヤーの“標準的な”姿です(もちろん、私 もその仲間でした)。これを如何にしてIPSへと変容させるか。ここがメンタルトレーニングのターゲットです。
H-N ーーー→ H-P (IPS)
これら2つの状態を、私 なりに言語化して列記することで対比してみます。
H-P:平静、集中、自信、自然体、一心不乱、今ここ → 楽しい
H-N:攪乱、散漫、不安、考えすぎ、先の結果がチラつく → 辛い
これらを見比べると、H-N から H-P へと移行するために心掛けるべきこともなんとなく見えてきますね。
では、「H-N → H-P」の変容を促す行為を以下に列記します。
【具体的方法論リスト】:
-
ここぞというとき息を吐く。すると生理現象として、力が抜ける。つまり、リラックスできる。テニスプレイヤーは、打つ瞬間に声を出して息を吐いている。実に合理的。(ポイントを取った“後の”「チョレー」は鼓舞&威嚇かな。)
同時に、呼吸に意識が『集中』する効果もある。
-
心の乱れは「心拍数」に現れる。低すぎても駄目だが、高すぎるのも困る。心拍数をコントロールするのも、呼吸。深呼吸1回で、心拍数(毎分)は10下がるとのこと。
(注)この本には、吸って、一回止めてから、吐く。と書かれていますが、それは誤りだと考えています。呼吸法の基本は、吐く。長ーーーーく吐く。吐き切ったら吸おうとはせず、吐き切った状態がしばらく“自然に”維持されたあと、“自然に”息が「入って来るのを待つ」。要は、息を吐くことだけに神経を『集中』すればそれでよいのでーす。
-
アイ・コントロール。ミスを犯し、心が乱れそうになったらラケットのガットを直し、視線を一点に集中する。これによって、乱れた心が過去への後悔や未来への不安に彷徨うことを防ぐ。これも、呼吸法と並んで、何か一つに『集中』するためのテクニーク。
-
かつての最高のプレーを思い出す。しかもなるべく具体的に。五感を総動員して。イメージするだけで、人の体には実際にプレーするときと同じ生理反応が起こる。
私は、自分の過去のいいプレーってあまりないので(笑)、当時心酔していたテニスプレイヤー:アンドレ・アガシのビデオを観まくりました。
(注)ジム・レイヤー氏は「悪いプレーも思い出し対照しろ」と書いていますが、この点には私 は異を唱えます。良いイメージだけを頭に描く方が、正しいフォームが実現されると考えます。当時の(初期の)アガシは感情の起伏が激しく、悪いときの彼は目も当てられないので観ないようにしてました。この点は、この本の内容に反して自分なりにアレンジしました。
-
「今、ここ」で「全力を尽くす」ことに『集中』しようと心掛ける。そして、自分が行った全てのことは自分の責任だと考える。つまり、
全てを「自分」だけに『集中』する。
起こった好ましくない事象を、自分以外のこと:ラケット、強風、イレギュラーバウンド、誤審のせいだと責任転嫁すればするほど、心はあちこちに彷徨い乱れ波立ってしまいますから。(ここで用いた「今、ここ」は、次章:仏道におけるキーワードです。)
- 以上のことを、まずは“意識的に”何度も繰り返し実践する。そして、実戦において無意識にできるところまで身につける。試合中は、頭に詰め込んだ知識は忘れているのが理想。でないとかえって体や思考が硬直化してむしろパフォーマンスが低下することさえあります。(「数学」も同じです。)
というようにリストを並べるのはカンタンですが、「理論」がわかっているだけでは駄目。あくまでも「実戦」を通しての「実践」が伴って初めて有意義なものとなります。
私にも、明確に「IPSだった」と言い切れるプレーが出来たことがあります。その時の印象は、今でも驚くほど鮮明に、それこそ“手触り”まで記憶に残っています(思い出すのは何十年振りですが)。
夏の蒸し暑い夜、京王線沿線のテニスコートのナイター照明のもとでテニス仲間と行った練習試合です。「練習」といっても、私には試合以上の強大なプレッシャーがのしかかっていました。初めて観戦しに来たカノジョさんにいいところを見せたいという・・・(笑)。
そんな、どんな実戦よりも緊張する練習試合の中で、少し前から継続していたメンタルタフネストレーニングの甲斐あってか、やってきたのです。降りてきたのです。「ゾーン」=「IPS」が。
ショットを放つ際、いつもは「アウトしたらやだな」とNegative に考え、実際にアウトすると「アーバカ」とか声を出して自分を罵ってしまうのですが、その日はなぜかアウトになる気がせず、ラケットをしっかり振り抜くことができ、トップスピンがかかったボールは高い軌道を描いてベースライン内に収まりました。また、時にアウトしてもすぐに目線をガットにもっていき、すぐに気持ちをリセットすることができました(少しプロっぽく見せて自己陶酔することもできました(笑))。また、このポイントを落とせばセットを失う状況でのセカンドサービスという緊迫した場面でも、なぜか「絶対にダブルフォルトはしない」という由来不明な自信に満ち溢れ、意識はトスアップしたボールだけに集中していた、というより、そもそもすべてが無意識に実行されていました。
対戦相手は私より数段格上のプレイヤーでしたので、けっきょくはその試合には負けてしまいましたが、いつも弱気に傾いてしまう自分との闘いに勝利した満足感でいっぱいでした。そして何より、
楽しかった!
後でカノジョさんから聞いたのですが、観戦していたら隣にふらっとコート管理のおじさんがやってきて、「凄いプレーしてるね~」とわざわざ声をかけてきたそうな。私の「ゾーン」が、外野の人にまで伝わったのかもしれません。
もっとも、残念ながらその後も順調に進化して常時 IPS を作り出せるようになった訳ではありません。今にして思い返してみれば、この本で紹介されていた事柄に対して、「理論はわかった。あとは自分流で。」と高をくくっていたようです。
「H-P」=IPS を、偶発的ではなく、人為的にしかも高い確率で出現させるには、相応の時間・労力をかけ、相当な期間トレーニングを反復することが欠かせません。もちろん、その訓練は研究データに裏打ちされた正しい方法論によるものでなければならず、古めかしく非合理的な苦行であっては話になりませんが。
私は、スポーツ選手としてはこの「H-P」=IPS を究める前に肩の腱を損傷してあえなく・・・となってしまいました。しかし、メンタルタフネスに関して学んだことは、スポーツを人に教えること、延いては脳のスポーツである数学を教える上で大きく貢献することとなりました。まあ、人生いろいろ。何がどこでどう役立つかなんて、誰にも先は読めません(笑)。
6.トレーニングその(3):仏道(座禅・瞑想)
仏道との出会いはごくありがちなパターンです。
自分の命に対する不安がきっかけでした。
今から20年以上前。週6日授業、日曜も半分は会議、その合間を縫って「勝てるセンター試験数学」を執筆していた頃。睡眠時間は毎日3時間。しかも寝てる間も意識は覚醒しており問題作ったり翌朝の予習してたり。それでも本人は周りから必要とされ仕事が楽しくて仕方がないという、いちばんアブナイ状況(笑)が3カ月くらいは続いた頃のある日、午後の授業で急に目の前真っ暗意識吹っ飛び、広尾の日赤まで救急搬送。ベッドで治療を受け、いちおう回復してしまったので家に帰されましたが(笑)。しかし、その後も頻繁に同じような症状に見舞われ、いつしか
「おれ、死ぬかもな。もうすぐ。」
という考えに捉われるようになりました。自分自身の生命がどうこうというより、扶養親族を残して先に行くことに対する恐怖感で押し潰されそうな日々の連続。もちろん家族にも、家族にこそ打ち明けられない。けっこう辛いぜ(笑)。
そんな境遇の人間は、自然と宗教的なもの、スピリチュアルなものに目が向くようになるもので、いろいろ書物など読んでいくうち、最終的に行きついたのは一人の偉人:お釈迦様の教えでした。
「仏教」といっても、日本で広まっている「大乗仏教」ではありません。中国経由でやってきたこの系統の仏教はとても深遠で、理論は難解。“今”自分を押し潰しそうなこの恐怖をどうにかしたいという切羽詰まった当時の私には、そんな大乗仏教を勉強して理解するだけの時間の猶予がありませんでした。
そんな私の心に留まったのは、いわゆる原始仏教の方です。ところが、東南アジア地域に残されているこの種の仏教に関する日本語の情報は、情けないくらい限定的。そこで、まず英語の勉強を少しやり直して洋書や海外サイトを利用して学んでいきました。そして、原始仏教の経典で使われている言語:「パーリ語」も、基礎文法から勉強していきました。(もちろん、仕事を少しセーブして。)
「パーリ語」とは、古代インドの言語の一つで、お釈迦様が実際に話した言葉に近いと言われています。また、いわゆる「インド・ヨーロッパ語族」に属するので、その文法はラテン語とかなり似ています。経典に原語で触れたいという思いから、机の前の壁に活用表などをベタベタ貼り付け必死で勉強していきました。もっとも、原語でスラスラ読めるほど習熟するには至らず、見開きパーリ・英語対訳版の経典を、英語を参照しながら読んだりしていましたが(笑)。
誤解のないよう付け加えておきますが、パーリ仏典だけがお釈迦様の真正の教えとして唯一無二のものであり、大乗仏教は後世の別人によって歪められたまやかしものだ、というような断定的な考えを持っている訳ではありません。ただ、当時の追い詰められた私には、原始仏教の方がすーと体に染み入ってきたのです。そもそも、私のような“素人”にとっては、どちらが真正であるかはさほど重要なことではなく、その教えが自分の心に平静をもたらしてくれるならそれでよかったのです。
では、その「原始仏教」で説かれている内容についてお話しします。といっても、私は専門家ではありませんので、ちゃんと正確に内容を話す資格も資質もありません。仏教“学”の権威の先生からしたら、私の理解など“屁”みたいなものでしょう。それでも、私自身にとっては充分尊いものですので、ここに書かせていただきます。
実は、膨大な量の経典に記されたお釈迦様の教えの真髄・核・原理はとてもシンプルであり、各個人が自身の“修行レベル”に応じた深度でそれと対峙することができます。その「神髄」は、次の経典の中に書かれています。冒頭部分を抜粋します。
~『Satipaṭṭhāna Sutta (念住経あるいは念処経)』より~
Katham ca pana, bhikkhave, bhikkhu kāye kāyānupassi viharati?
Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato va suffāgāragato vã nisidati pallankam ābhujitvã, ujum kāyam panidhāya, parimukham satim upaţthapetvā. So sato va assasati, sato va passasati. Digham vā assasanto 'dīgham assasāmi ti pajānāti, digham vã passasanto digham passasāmi' ti pajānāti. Rassam vā assasantoʻrassam assasāmi' ti pajānāti, rassamvāpassasantoʻrassam passasāmi'ti pajānāti. ‘Sabbakāyapațisamvedi assasissāmī' ti sikkhati, 'sabbakāyapatisamvedi passasissāmi' ti sikkhati. *Passambhayam kāyasankhāram assasissāmi ti sikkhati, ‘passambhayam kāyasankhāram passasissāmiti sikkhati.
比丘1)は森に行き、あるいは木の下に行き、あるいは静かな所に行って、結跏2)し身体をまっすぐに座して、念を身などに向けて集中させる。そして、正しく念を持って出息し、正しく念を持って入息する。長く出息すれば、私は長く出息すると知り、あるいは長く入息すれば、私は長く入息すると知る。あるいは、短く出息すれば、私は短く出息すると知り、あるいは、短く入息すれば、私は短く入息すると知る。
比丘たちよ、次にまた、歩いている時は、私は歩いていると知り、あるいは、立っている時は、私は立っていると知り、あるいは、座っている時は、私は座っていると知り、あるいは、伏せている時は、私は伏せていることを知る。あるいはまた、行住坐臥3)のどのような状態にあっても、それをあるがままに知る。
~(株)国際語学社
「ミャンマーの瞑想―ウィパッサナー観法 (日本語) 」
マハーシ長老 (著), ウウィジャナンダー大僧正 (翻訳)
より引用~
<注>1)修行僧
2)結跏趺坐に関しては後述
3)行:歩いている 住:立っている 坐:座っている 臥:横になっている
同じようなことばかり何度も言ってますね(笑)。「なんじゃこりゃ?」と思った人も多いでしょう。でも、私は今でもこれを読むだけで涙が溢れてきます。そのくらい、私にとっては尊い教えです。(「比丘は森に」の時点でウルっと来ますから、ほとんど涙腺が自動化されてるようです(笑)。)
内容は至極単純で、要は「今の自分の状態をあるがままに知覚しなさい。」と言っているに過ぎません。自己観察というやつですね。
“頭で”理解することはカンタンです。でも、それでは何も生まれません。この教えの有難みは、何度も何度も実践を繰り返して繰り返して心・精神そのものに変容が生じたとき初めてわかります。そして、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、この世でいちばん尊いものとなります。
修行を積み、このような「あるがままの知覚」がある程度自動化されてくると、その成果として、現代人は、社会の荒波の中で出会う日常の様々な出来事に動じることが少なくなります。
例えば職場のAという人物が凄く嫌な人で、あなたは帰宅してからもAのことを思い出す度に憂鬱になる日々を送っているとします。職場で実際にAがそこに居て嫌がらせ・ハラスメントを仕掛けてくるとしたら、今そこにある苦痛を感じることはある程度致し方ないですね。でも、帰宅してAがそこに居ないのであれば、あなたは本来何も憂鬱に感じる必要などないはずです。ところが一般人は、今そこにありもしない苦痛の種をワザワザ想起し、自分を必要以上に苦しめていたりします。心が、Aに捉われています。あなたの心は、あなた自身の意思ではなく、Aという嫌な存在に支配されてしまっているのです。心が、嫌なAと溶接でくっ付いて直リンクしちゃっていて、切り離すことができない状態です。
① 心 ←→ 嫌なA
ところが修行を積み重ね、あるがままの知覚が自動化されてくると、
「自分はAが嫌だ」
「自分はAが嫌だと感じている」
「Aが嫌だと感じる自分がいる」
という相対化・客観視が自然と行われ、①のリンクがかなり弱まります。
② 心 ←「Aは嫌だと知覚」→ A
こうなると、帰宅後にAの幻影が現れてもあまり捉われることはなくなり、また、職場で起きる致し方ない苦痛も、かなり和らぎます。
②で行われていること。それは前出の「自己観察」と、それを言葉にして念じ、唱えることです。よく(心の中での)「実況中継」と表現されます。
自己観察を実況中継
これが、修行の成果であり、また修行の方法論ともなります。
今この文章を読んでいる方の多くは、①と②の違いがよくわからないかもしれません。しかし、次にご紹介するような修行を日々積んでいくと、その違いは歴然としてきます。
◆【座禅・瞑想の仕方】
それでは、修行の中核である座禅・瞑想のやり方を説明します。
-
床に座ります。椅子は、よろしくありません。じっとしていると、血液がふくらはぎへと下がってしまうからです。
-
背筋を伸ばして座ります。呼吸が楽になるからです。
そのために、「座布」に座ってお尻の位置を高くします。
私はニトリのミニビーズクッションがお気に入りです。
お尻の位置が“ピタッと”決まる感覚が好きだからです。
-
結跏趺坐(←知らない人は画像検索)が理想です。でも、半跏趺坐でもなんでも構いません。要は、姿勢がピタッと決まることが肝要です。
結跏趺坐には、お尻・右膝・左膝の3点が床に触れて位置がピタッと定まるというメリットがあります(共線でない3点は平面を決定する)。でも、関節が堅い人は脚が痛くなりますから、他の方法を選択しましょう。脚の痛みに耐えるのが修行なのではありませんよ。勘違いなされませんように(笑)。
お釈迦様の悟りは、「苦行じゃダメだ」と気付いた後に訪れたものですから。
一番楽な姿勢がベストなのです。
世に結跏趺坐にこだわる人が居るとすれば・・・ファッションです(笑)。「アタシ、ヨガやってます!」っていう場合は、やはり結跏が組めるとカッコいいですから。
-
楽な姿勢といっても、横になって瞑想するのは難度が高いです。眠くなりますので(笑)。やはり床に座るのが基本です。他では「歩きながら」もいいですね。歩くことで、血液がふくらはぎから心臓に戻ってきますので。「歩行禅」と呼んだりします。
-
好ましい状態は、平静と覚醒の同居です。このワードは、メンタルタフネス(勝つためのスポーツ科学)でも登場しましたね。
心はとても静かですが、けっして眠くはない。
意識は研ぎ澄まされているのに、決して高揚したり落ち込んだり波立っていない。
これが理想です。
-
部屋は明るすぎず暗すぎず、心が静かでいられ、なおかつ眠くなりにくいようにします。
眼は半開きできもち下向き。
目線は向かいの壁のある一点に向けます。でも、その一点に捉われはしません。
-
意識を向ける先は、(初心者の場合)基本的には呼吸です。Satipaṭṭhāna Sutta にある通り、息をゆっくり自然に吐きながら「息を吐いている」と(心の中で)唱えます。長く吐く意識を持った方が心の平安を得やすいでしょう。そして、吐いた分だけ自然に息をゆっくり吸いながら「息を吸っている」と唱えます。これをただ継続的に繰り返します。
なぜ呼吸か。それは、呼吸は心と体をつなぐ架け橋だからです。呼吸とは面白いもので、随意にも不随意にも行うことができますね。そのためでしょうか。呼吸を意識でコントロールすると、本来意識ではコントロール不能な心身の状態、例えば心拍数とかを一定レベル操作することが可能です。なので、呼吸に意識を集中することは、自身の心身のうち意識の及ばない部分をも制御することにつながる重要な行いなのです。
腹式呼吸が理想です。まあ、深く長く呼吸しようとすれば、自ずとそうなるはずですが。また、基本的には鼻で空気を出し入れします。もし長~く時間をかけて吐く方が瞑想が上手く行くという場合は、吐くときは口を使って出る息の量をコントロールしてもいいですが、吸うときは必ず鼻です。鼻毛フィルターで埃の侵入を防ぎ、外気温を体温に近付けてから取り入れるためです。
-
簡単そうに聞こえますが、実際にやってみると心はあっちこっちに移ろいます。笑っちゃうくらい(笑)。そこで、数息観という手法を用います。自分の息を数えるのです。私自身は、息は主に吐くものであり吸うのはその帰結に過ぎないと思っているので、長~く吐くときに「いーーーーーちーーーー、にーーーーいーーーーー・・・」と数えています(人それぞれでよいでしょう)。
途中で心が乱れ跳んで、数がわからなくなったら、また一から始めればOKです。
-
体の一部に痛みや痒みが生じたりします。その場合、数息観を続けられるならそうしますが、いったん呼吸から離れ、「右の耳が痒い」と知覚し唱えて“も”かまいません。でも、その痒みに捉われないこと。耐えられなくて掻くときは、「耐えられない。右手を持ち上げ右の耳を掻いている」と、あるがままを知覚します。
私個人は、右の耳が痒いとき、右耳と左耳という左右対称な位置にある二か所に同時に意識を向けることで、痒みを消せることがあります。
-
瞑想中、例えば前出の「Aが嫌だ」という思いが沸き上がってくることもあります。対処は同じです。いったん呼吸から離れ、「自分は嫌なAのことを考えている」と知覚し唱えてもかまいません。その知覚にそっと触れ、「やあ」と挨拶してやり過ごします。決して捉われることなく。
どうしても捉われてしまうなら、「自分は嫌なAに捉われている」と唱えます。
-
初心者が行う瞑想は、おおよそ以上の通りです。このような瞑想を続けていくと、徐々に、「平静と覚醒の同居」に到達できているという感覚を得られることが増えてきます。すると、修行が上手く行っていることに歓喜し、心がざわつきます。もちろんそのときもちゃんと自己観察して「自分の心は今、歓喜でざわついている」と唱えるまでです。
-
瞑想する時間は、個人個人が決めることです。
5分でもそれなりの成果はあります。できれば20分くらいはやりたいかなと個人的には思いますが。
その日の状況、感じている不安の度合いに応じて長くしたり、短くしたりすればよいでしょう。
コロナ禍の今(2020年4月)、私の修行時間は自然と長めになってる気がします(笑)。
以上の通り、基本的には、おんなじようなことを延々続けます。
同じことを何度も繰り返す。
実はこれこそが、人が何かを身につけるために最重要な修行です。数学も同じです!
◆【要点のまとめ】
これまで話してきたことを、思いっ切り端折って要約します。
お釈迦様の教えの真髄は、次の通り。
今此処に起こる全てのことを、あるがままに受入れる。
受入れるけれども、決して執着しない。
そのための修行のメソッドであると同時に修行の成果でもある行いが、次です。
自己観察を実況中継
<注>
「実況中継」をする際、例えば歩くときには、「右足が地面に着いた」のように、起こったことを後追いして唱えます。
行為が先、唱えるのは後
けっして、「さあこれから右足着くぞ」のように“掛け声”になってはいけません。それは「自己“観察”」になっていないですから。
◆【日常の中での実践】
上で述べたように、お釈迦様の教えはとてもシンプルであるが故に、日々の暮らしのあらゆる局面に適用できます(数学の基本原理とよく似ています)。また、逆に言うと、日々の暮らしの様々な局面で修行することが可能です。
修行の中核は「静かな部屋での座禅」ですが、我々在家の人間は、ちゃんと出家して修行を行う僧に比べると当然修行に割ける時間が限られます。そこで、日常の“スキ間”時間を使って“こまめに”修行することが有効かつ肝心です。この「スキ間修行」を継続していれば、忙しくて座禅する時間が取れない期間でも、それまでの修行の成果を失わずに維持することはある程度可能です。
あるいは、日々のいろいろな局面で、修行で得たことを実践・活用することも大切です。それによって、修行の成果が定着・持続しますので。
以下に、私が普段から行っているスキ間修行&日々の実践の例の一部を挙げてみます。やろうと決めているというより、習慣付いて自動化されているものばかりです。
- 歩行者用信号が点滅。人々が条件反射的に走って間に合おうとするとき、「信号に掛かりそう。間に合えば、渡ろう。間に合わなければ、待とう。」と唱え、待つことになった場合は呼吸に意識を集中する修行チャンスと捉えます。
- スーパーのレジが混雑。「レジが混んでいる。待たされている。」と唱え、レジ横に置いてある商品に書かれた漢字に意識を向ける練習をします。
- 歯医者での治療。「今、歯が削られている。少し痛い。」と唱えます。すると、それまで「痛み」と感じていたものの半分以上が、ウィーーーーンという高周波音によって増幅された恐怖心による幻覚に過ぎないことがわかります。歯をけっこうな深さまでノー麻酔で削り、歯医者さんに不思議がられたこともあります(笑)。
- 同じく歯医者での治療。体に力が入っていると余分な痛みを感じます。そこで、「ボディスキャン」を実行します。頭の天辺から足の爪先まで順に意識を運んでいき、例えば右肘に力が入って緊張していることを見つけたら、右肘に心でそっと微笑みかけて「右肘が緊張している」と唱えます。それと同時に息を吐くと緊張が取れ、少し痛みが和らぎます。
- 向こうからスマホ凝視しながら人が歩いて来る。「自分は歩きスマホが迷惑だと感じているな」と唱える。同時にその人の上半身から脚へと目を移し、純粋に「動く石だ」とみなして避けて通る。これは最近開拓しました。イライラがだいぶ減りました(笑)。
-
映像授業の収録中、ミスに気付いて狼狽。「自分は今狼狽している」と唱え、フッと息を吐いて呼吸を整えてから問題と板書を見直すと、たいていすぐ見つかります。たまに、声に出して「自分は今狼狽している」と授業で喋ってることもあるかな(笑)。
-
仕事に取り掛からなければならないのに、どうもそこへ気が向きづらい。あるいは集中できない。これは、「心」の問題。でも、自我が司りやすいのは「身体」。だから、心と身体の掛橋=「呼吸」に意識を向ける。坐って、あるいは歩いて軽く瞑想します。
こうすると、身体の所作に導かれて、たるんだ心が治ります。
- 高速道路の渋滞。「車が、動かない。」と唱え、前の車のナンバープレートに意識を合わせます。そして、その4桁の自然数を素因数分解します。これは、単なる職業病ですが。
等々。挙げていくと切りがありません。ほとんど確信をもって言い切ってしまいますが、お釈迦様の説いた教えの適用範囲は、人の「心」に関する限り、全てだと思われます。
なんや。大切な教えは2500年前既に地球上に全部あったんかい!
というオチです。
<注>
こうして見てくると、とくに崇拝する対象もない(原始)仏教って、なんか宗教っぽくないですね。実際、仏教学者の人は西洋の宗教学者の人から「仏教って、ホンマに宗教なんかい?」と聞かれるらしいです。ですので、「仏教」というより、「仏道」という呼び方の方がしっくりくると思います。
◆【初心者向けの書籍】
人生で初めて仏教とか瞑想とかに興味を持ったというズブの素人でも取っつきやすいよう、とても自然な言葉(英語)で「大切なこと」を説いてくれる本が( → )です。
英語ネイティブ圏ではない著者による本なので、英語も凄くカンタンです(笑)。
著者ティク・ナット・ハン師は、大乗仏教寄りの方だと思いますが、初心者向けに書かれたこの本の内容は、仏教の原初の部分とほぼ同じであり、簡明で、私のような素人・初心者でも吸収しやすいものになっています。
ぜひ、音読することをお勧めします(私もやってます)。
自分が声に出して読むその「音」がとても心地よく、心が平安になります。
中でも、「Conscious Breathing」という一説にある
Our breathing is the link between our body and our mind.
という一文は、上述した非常に重要なことを述べると同時に、とても美しい響きを持った言葉だと思います。
◆【新型コロナウィルス関連(2020年4月・記)】
コロナウィルスへの対応も同じです。
「コロナ怖いよどーしよー」ではなく、「自分はコロナウィルスに対して恐怖心を抱いている」と唱えます。
「マスクが欲しい!」ではなく、「自分には今20枚くらいのマスク在庫が必要だ。その枚数を確保したいと欲している」と実況中継します。
ニュースに映る世界中で最も悲惨な地域の情報に常時接することから生まれる恐怖心で「コロナ鬱」になっている人も多いそうですが、おそらくその恐怖心の何割かは過度で無益なものでしょう。
今ここで自分が感じている恐怖を正しく知覚・評価し、どこまでが本来あるべき真正の恐怖で、どこからが“捉われ”によってもたらされる幻影に過ぎないのか。仏道修行を積めば、間違いなくその区別が鮮明に見えてきます。そして、正しく恐れた上で今日何をなすべきかも、自ずとわかります。
マスク、皆が欲しいです。私も欲しいです。それ自体は当然の欲求でしょう。問題は、そうした自身の正当なマスク需要を超えて欲し、購入している人がいるということです。正当な欲求と、まだ20枚あるのに朝から並んで他の誰かの正当なマスク購入チャンスを奪ってでもマスクを所有したいという煩悩。この2つの線引きも、修行がなされていればクッキリと見えてきます。私は、並びませんし探しませんし店員さんに尋ねません。
マスクを独り占めいようとする「利己」に関しては、この頁で述べていない仏道のもう一つの基本精神:「慈しみ」の方がより深く関わっています。
Sabbe Sattā Bhavantu Sukhitattā
(生きとし生けるものが幸せでありますように)
~Metta Sutta (慈経)より~
この経も、声に出して読むと響きが本当に美しいです(あちこちに音源ありますよ)。
なお、この「生きとし生けるもの」の中には、自分がいっちばん嫌いなヤツのことも含まれます。めっちゃハードル高いです!(笑)
という訳で、要は適正レベルで恐れましょうということでした。結論自体は、とってもありがちなものですが、仏道修行がなされていると、その「適正」をちゃんと見定めることができます。そこが大きいんです。おそらく煩悩に捉われてドラッグストアに朝並ぶ人の多くは、自身の煩悩を知覚できていませんから(笑)。
もし、国民全員が修行を積んでいたら、少なくともドラッグストア店員さんから「コロナより人が怖い」という悲鳴が上がることはなかったもの思われます。
最後に一つ。今のような悪い時こそ、その人の本質が現れます。見極めるいいチャンスです(笑)。逆に、あなたの人としての価値が、周りから観察されています。お互い、知らず知らずのうちにね。
私個人は、修行して自分を高める絶好のチャンスだととらえています。だから、日々とても充実しています。
【プレッシャーとのお付き合い】目次へ
サイトトップへ