大正5年(1916年)創業の頃


この市電車両は、横浜市・野毛山動物園に保存されているものです。
現在はレスト・スペースになっていて、多くの人に親しまれています。



市電の仕事を退職した初代が、当地に『日本堂』という屋号のパン屋を開業しました。
初代は隣町の吉田町にあった『日本堂』というパン屋で修行をしましたので、この屋号になりました。当時パン屋は徒弟制度でしたので、修行をした店の名を名乗るのが習慣でした。
 


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店名の由来
             ★昭和のころ、戦後復興期に撮影された「横浜市電」
             市電は明治・大正・昭和の時代を市民の足として走り続けました。
                         (写真提供=横浜市O様)

当店の歴史

当店は大正5年から戦前までは『日本堂』と名乗っておりましたが、戦後になって『コテイベーカリー』という屋号に変更いたしました。かつてパン屋は徒弟制でありましたので、和菓子屋の伝統と同じく修行をした店の名で暖簾分けをするのが慣例でした。

当店は戦後の一時期、小麦粉が統制され、パン屋ができない時代に『喫茶・コテイ』として喫茶店とパン屋を兼ねた営業を続けていました。統制解除後、喫茶店の名前をそのまま使用した『コテイベーカリー』となりました。

COTYコテイはフランスの人名で、香水王・フランソワ・コテイ(Francois Coty 1874年〜1934年)から、その名をとりました。かつて香水と化粧品の「COTY」は、多くの人々に愛され親しまれました。ですから、昭和に開業した店舗には、この名が付けられていることが多くみられます。美容室・ブティックをはじめとして、喫茶店にもこの名が多くみられます。先代は、覚えやすく、親しみやすい点が気に入り、戦後の自由な雰囲気の中で再開したパン屋に『コテイベーカリー』と名付けました。

作家の佐多稲子さん(1904〜1998)の『私の東京地図』(昭和24年)にはコティ化粧品が流行していた頃の様子が書かれています。

 「コティの化粧品はこの時分から流行しだした。私は大分仕事に慣れて来て、値段調べに三越や白木屋へゆくことがある。三越はもうその頃には下足をつけていなかた。私は上草履にしているフェルトの草履で出かける。仕事の用事で日本橋を歩いてゆく私は、少し気負って早足で歩く。日本橋のあたりは焼けあとにバラック建てで復興してゆくこの頃も、折鞄を下げた男たちの忙しげな足どりや、事務服をつけたままの女事務員の姿など、商用や社用で歩く人が主流を為しているように見える。」 

(※画像はアメリカの雑誌に掲載されたCOTYの宣伝イラストです。松林堂様よりご提供いただきました。)

                  …【略】
沿線に日吉、田園調布、自由が丘、代官山を置く、日本でもハイソサエティーな私鉄、東横線の横浜よりの終点、桜木町に、私の実家がある。線路と平行に、国道県道を間に置いて、一方通行の小さな商店街、花咲町は、「ハナザキチョウ」と読むのが正式らしいが、私はいつも「はなさきちょう」と言う。

一直線に五百メール程続く商店街は、通称「音楽通り」と呼ばれていて、パン屋、お菓子屋、靴屋、薬屋に始まり、油屋、八百屋、お茶屋、ハンコ屋、乾物屋と続く。通りの中ごろにある私の実家は、小さな貸本屋をやっていた。通りの終点は、なだらかな坂道になっていて、登りきると、今度は直角に、紅葉坂という坂がのびていて、その先には、横浜でもかなりの老舗の県立音楽堂がある。

昔は、クラシックの演奏会が盛んで、十二月にもなると、演奏会帰りの人達が、第九や賛美歌を合唱しながら家の前を通りすぎていった。おそらく「音楽どおり」という名前も、そんなとこから付けられたらしい。私が幼い頃、子守唄替わりに聞いた「もろびとー、こぞりてー」が日本語だったという事を知ったのは、ずい分後だったと思う。
  

                 …【略】…

 少年の頃、よく屋根に登り、瓦に腰かけ見下ろした風景は、今、この屋上からは見られない。回りをいくつもの高層ビルやマンションに囲まれて、花咲町「音楽通り」も、時代の波に取り残されまいと、古い家は、五階、六階のビルに建て替えられ、木造の家は、もう、数える程になってしまった。



※文中の赤い文字のパン屋が当店です。テキストどおりに引用いたしましたが、読みやすくするため文章を区切って掲載いたしました。

           ☆集英社『すばる』1988年7月号 <フォーラム・すばる〜町の顔 ・屋上>より
次の一文は、1988年 第32回 岸田國士戯曲賞受賞者大橋泰彦さんが月刊『すばる』に執筆されたエッセイ『音楽通り』からの抜粋です。昭和30年代末頃の「音楽通り」の様子が文章から偲ばれます。大橋さんのご実家は、音楽通りで貸本屋さんを営まれていました。

※上から眺めた、昭和30年代の音楽通りと現在の音楽通りです。

♪当店の面している細い一方通行の道路には音楽通りという素敵な名前がついています。

※昭和20年代の音楽通りと店主、右は50年後同じ場所で撮影した現在の店主と町の様子
音楽通りというこの名は昭和29年(1954年)に建てられた、紅葉坂の「県立音楽堂」に由来しています。音楽堂に至る通りなので、だれ言うともなく、いつの間にか音楽通り、という素敵な名前がつきました。
左の画像は、昭和20年代の音楽通りの風景です。店主が3〜4歳の頃は、まだ県立音楽堂はなく「音楽通り」という名は付いていませんでした。低い木造の家屋が並んでいるので、空が広く見えます。店の前の道路は交互通行の砂利道でしたので、車が跳ね上げた砂利が、店のガラスを割るという事故がよく起こりました。
音楽通り今昔
             ※木造モルタル造りの『喫茶・コテイ』と幼児の店主
昭和30年代になると横浜も復興し、当店も木造モルタル造りとなりました。
パン屋も再開しましたが、喫茶店と併せての営業がしばらく続きました。店のテレビの力道山のプロレス中継
に沢山の人が集まり熱狂し、現代のスポ−ツカフェの様な情況でした。
画像右は当時野毛地区にあった聖アンデレ教会をモデルにしたケーキです。クリスマスの装飾用ケーキでした。
太平洋戦争から復員した2代目は、小麦コ粉が統制になっていてパン屋ができませんでしたので、しばらくの間、喫茶店として営業を続けました。その際に付けた屋号が喫茶・コテイでした。白い暖簾に『喫茶コテイ』の文字が見られます。この屋号をパン屋を再開する時に時そのまま使い、
コテイベーカリーとなりました。

昭和54年10月(1979年)現在の店に建て替えました。それまで扱っていた、仕入れの菓子類を一切置かず、自家製造品のみの販売に移行しました。現代では当たり前のことではありますが、街のパン屋としては、当時画期的で斬新な試みでした。
昭和の頃
大正5年創業の当店ですが、戦前の写真は震災と戦災で焼失してしまい残っておりません。これらの戦後の写真ではありますが、隔世の感があります。
昭和40年代に店を改装して、いよいよパン屋『コテイベーカリー』がスタートしました。パン屋とは言うものの、当時は仕入れの菓子類のほうが多く、パンはごく一部でした。コンビニもスーパーも無かったこの時代にはパン屋より菓子屋としての需要の方が多かったのでした。早朝の仕事開始時間から夜遅くまで店を開けていたのでコンビニに似た役割を果たしていました。
当時の看板と、小学生の頃の店主です。商品価格と電話番号に時代の流れを感じます。
現在の(231)という局番が(3)となっています。
空き缶を利用して作った看板に「おしるこコテイ」と書かれています。
敗戦で疲弊した当時の人々にとって、甘味は何よりの活力源であり、心の慰めであったことでしょう。昭和20年代前半の頃の写真です。
※木造バラックの喫茶コテイ