吉屋信子記念館 (よしやのぶこきねんかん)
鎌倉文士という名が残るように、鎌倉は数多くの作家を引き付けた場所でした。東京に近く歴史が深く自然が豊かで海辺の静かな町、というキーワードが文学者にとっては創作活動にとって何かとプラスに働いたのでしょうが、文壇の瓦解と呼応するように今の観光地化された喧騒さに、往時の面影をとどめる物は何もありません。ただ幾人かの住居が残されているのみです。
由比ガ浜に程近い住宅街のなかに作家”吉屋信子”の家が残されています。このあたりは鎌倉市内でもエアポケットのように非観光地化された区域で、訪れる人も疎らな閑静な場所にあり、この邸宅に至る小道は案内板も無いので少し判り辛いかも知れません。細い小道を進むとえんじ色の塀が見えてきます。門に立つ石碑の字は同じ鎌倉文士だった里見クの手によるもの。
吉屋信子がこの鎌倉に居を構えたのは1962年(昭和37年)、信子が66歳の時。それまでは東京で執筆活動を続けていましたが、静かに晩年を過ごす為にこの由比ガ浜の家を買い取り、リフォームして暮らしました。門から玄関へのアプローチは、木立のトンネルに舗石を少しずつずらせてアクセントをあたえ、玄関を見え隠れさせる巧妙な手法。
平屋建ての主屋は落着いた佇まいの数寄屋造りで、モダン数寄屋の巨匠と言われた吉田五十八の設計によるもの。信子は過去に東京の牛込と麹町とに住居を構えていましたが、いずれも吉田五十八に設計を依頼しており、この住宅で3件目の起用となりましたが、今回は既存の民家を改築した為に他の吉田建築とは意匠が多少異なり、太い柱や梁の多用は珍しい造りです。
内部は広い応接間と和室に書斎のシンプルな構成で、特に南側の庭に面した応接間と和室は窓が広く取られて、瀟洒な庭を眺められる寛いだ明るい空間となっています。和室の床框は欅を使った立派な造りで、信子はこの座敷を殊の外に気に入っていたようです。
和室の北側にある書斎は開放的な応接間と違って落着いた趣の小部屋で、北側の窓に面して大きな机が置かれています。天窓が開けられているので北側の部屋でも以外と明るく、窓から見える北庭も南庭との変化があり、執筆中の疲れを癒していたのでしょう。
南庭は広い芝生に塀沿いに築山が盛られ木立を設けたスケールの大きな庭で、、一角には東屋や手水に燈籠も置かれた茶庭を思わせる空間です。
信子は生涯独身を通し、その大半を同性の門馬千代と共に暮らしました。いわゆるレズビアンの作家と呼ばれることも多いのですが、その真偽のほどはともかく少女期の排他的な潔白性が、往時の男性中心主義の風潮の中でより進化し、一連の非現実的な少女小説を連打して、多くの女性読者の支持を集めました。最近は昼のドロドロのドラマの原作にも使われ(冬の輪舞)て再評価されつつあります。実際には戦後は少女小説は殆ど手がけず、「安宅家の人々」「鬼火」「徳川の夫人たち」等の歴史小説や中間小説などで高い評価を得て、代表的な女流作家の一人と数えられました。
この吉屋信子邸の近くに川端康成の旧居が残されています。康成が1971年(昭和46年)にガス自殺したことにショックを受け、それ以降床に伏せることが多くなり、1973年(昭和48年)7月1日に死去。墓は大仏のある高徳院に葬られました。享年77歳。
「鎌倉市吉屋信子記念館」
〒248-0016 神奈川県鎌倉市長谷1-3-6
電話番号 0467-23-3000
開館時間 AM10:00〜PM4:00
開館日 5・6・10・11月の各1・2・3日
4・5・610・11月の毎週土曜日