吉田神社 (よしだじんじゃ) 重要文化財
百万遍にある京都大学の広大なキャンパスの一番東に工学部があり、そのまた東には吉田山と呼ばれるこんもりとした小高い丘があります。南北に細長く広がる台地状の鬱蒼とした森で、平坦な京都市中では洛西にある双ヶ丘と並んで標高の高い場所となり、何かと緑に乏しい市中で暮らす人々にとってはオアシス的な存在として親しまれている場所です。この吉田山、その敷地の大半が吉田神社やその末社で占められており、東西南北どの方向から入山するのも必ず鳥居を潜らねばなりません。いわゆる聖域として崇められていたおかげかバブルの乱開発にも合わずにすみ、近所に一大観光スポットの銀閣寺があるとは思えないほど嘘のように静寂が保たれた場所で、桜・紅葉の名所でもあり山頂からは市内が一望できるお薦めの穴場でもあったりします。
なんでもこの吉田山はその昔は神楽岡と呼ばれていたそうで、大昔に八百万の神々が神楽を奏したという伝説が残されており、平安京制定後に藤原氏が市中で鬼門(北東)の方角にあたる当地に奈良の春日大社を勧請して祀り、平安京の鎮守社としたのがその謂れ。元々神域としての性格が残る場所に風水が加味されたわけですが、春日神を勧請した藤原山蔭の自宅がまずここにあり、そこに鎮守社として創建したのがきっかけだったようです。平安初期の859年(貞観元年)の創建で、一条天皇の子である卜部氏(吉田氏)が代々神職を務めており、「徒然草」で知られる吉田兼好も当家の出身。
山の西斜面にあるのが本宮で、春日神ということで春日造りの本殿が4連に並ぶ春日大社と同じ様式。この周囲には舞殿・直会殿・着到殿や末社の若宮社・神楽岡社・今宮社が点在しており、お菓子の神の「菓祖神社」や料理の神の「山蔭神社」なんてのもあります。また春日神由来ということでか奈良の鹿の銅像や(神の使い)、君が代に出てくるさざれ石もあったりします。
この本宮からポツンと離れて、山の一番南側にあるのが斎場所大元宮。吉田氏は室町期に応仁の乱で荒廃後に独自の吉田神道という新たな教義を興しており、その教えに基づく施設を創建したのがこの社殿。
吉田神道とは、.中世以来の神仏習合を拒絶し神主仏従を唱えた思想で、全ての根源を神という唯一の存在に集約させた唯一神道を教義としています。江戸幕府からお墨付きをもらってからは全国に流布し、神社本庁として全国の神官の任命権も握り、明治期までは全国の神社全体を支配下に置くまでの権威と格式を誇った神社でした。この大元宮はその教義の道場として開かれたもので、桃山期の1601年(慶長6年)に建造されています。国の重要文化財指定。
周囲を透塀で取り囲んだ境内の中心に社殿が祀られています。全国幾多ある神社建築の中で最も特異な造形を持つ社殿として知られており、まず八角形の平面を持つ入母屋造りの茅葺屋根の主殿に、後部に六角形の平面の檜皮葺による後殿がドッキングし、前面に檜皮葺の向拝が取り付く不思議な構成で、平面を見ると亀が足を引っ込めて首だけ出した形状に似ています。また主殿の屋根中央には宝珠が乗っていて、その前後の斜めに突き出た千木は前方は水平に、後方は垂直に切れており、他の神社建築ではまず見ることのできないユニークなもの。美しい高欄の付いた回縁や舟肘木など優美な面も見せますが、それまでの伝統建築の各様式が混沌として一体化したような感があり(法隆寺夢殿や住吉大社など)、その教義の特異性からかこのような建物が完成したのでしょう。
この社殿の周囲にはグルッと囲むように、諸国の神々を祀る連棟の社殿が並びます。このあたりの構成も唯一無二。
毎月の1日に境内に参拝が可能です。