柳瀬荘 (やながせそう) 重要文化財



 明治期以降の近代数寄者と言えば、益田鈍翁に原三渓、そして松永耳庵といったあたりがその代表格。いずれも古美術品のコレクターとして名を馳せる一方で、固有の美意識に基づく数寄屋建築を次々と創造して行った御仁達でした。特に最後の茶人とも呼ばれた耳庵の足跡・痕跡は各所に残されており、その独自の茶の世界に今も触れることが可能です。現在は所沢市に編入された旧柳瀬村の坂之下地区に、耳庵が壮年期に構えた「柳瀬荘」と呼ばれる別荘があり、東京国立博物館が管理して毎週木曜日のみ公開しています。

 

 この柳瀬荘のある場所は柳瀬川の畔の、小高い雑木林の中にあるのですが、現在は敷地の前を国道463号線(通称浦和所沢バイパス)が走り、おまけに川越街道の英インターと関越自動車道所沢ICとの間にある為に引っ切り無しにダンプ・トラックが黒い粉塵を撒き散らして抜けるので、耳庵が過ごしていた頃であろう長閑な田園風景は微塵にもありません。その騒音と振動で喧しい道路の傍らに大きな長屋門が構えられており、ここが元々の出入り口。駐車場とトイレが設置された入り口から雑木林の中を丘に上がると、今度は小振りな四脚門が出迎えます。道路からは150m程離れており、木々に囲まれ標高差もあってかここまで来ると嘘の様に静か。

 

 松永耳庵(安左ヱ門)が当地に別荘を建設したのは耳庵55歳の1930年(昭和5年)のこと。武蔵野の雑木林を切り開いて西洋風の田舎屋(ロッジ?)を建てる目的で当地を購入したようなのですが、ここで何故か方向転換して日本の田舎屋を建てる事になり、近郊の東久留米市柳窪にあった村野家の主屋を購入して母屋とし、敷地5千坪にも及ぶ広大な敷地に次々に数寄屋・茶室を建てたのがその陣容。終戦後までは耳庵の所有だったのですが、GHQの方針で資本家の資産が課税対象とされることになり、1948年(昭和23年)3月にそれまで蒐集していた古美術品も含めてそっくり敷地ごと東京国立博物館に寄贈されたのがその経緯です。門を潜って正面に見えるのが母家である旧村野家住宅で、「黄林閣」と命名された巨大な豪農屋敷。国の重要文化財に指定されています。

 

 

 村野家は江戸期に大庄屋を務めた農家で、この住宅も江戸末期の1844年(天保15年)に建造されたもの。なによりもその規模の大きさに圧倒される建物で、大きさは平面で桁行24.9m奥行11.9mあり、屋根の高さも10mを越えています。外観では屋根は入母屋造りの茅葺で、正面中央左手に式台を付けて、右手に大戸口を開けた構成。この式台や大戸口に格子窓や障子が幾何学的に整然とまとめられて並ぶ姿は、モンドリアン的なモダンな印象があり、江戸郊外の幕末期らしい洗練さが感じられます。

 

 外観でもう一つの特徴は、妻側の大きな破風に寺院建築で見られる木連格子と懸魚が取り付けられ、屋根裏も化粧垂木を取り回した点で、おそらく格式の高さを示すものだったのでしょうが民家というよりは寺院の庫裏を思わせる内容です。

 

 内部は正面から右半分が広い土間、左半分が座敷部となり、土間の天井は高く吹き抜けて豪壮な梁組みを見せます。ここの梁組みは少々面白い構成となっていて、太い桁行梁を挟み込むように二本の梁行梁を噛ませた二重梁となっており、天井を見上げると何本もの太い梁が交差して広大な土間を支えています。屋根妻部の木連格子が天窓代わりにもなっているので、土間内はそれほど暗くはありません。

  

 

 座敷部は3X3列計9室が整然と並ぶ構成で、畳の数で73畳にも及ぶ広さ。土間側の「広間」「茶の間」の上に二階がありここへは茶の間の箱階段で上がれますが、現在この建物は管理人一家が住居としても使用中なので、床上へはイベント等以外は上がる事が出来ません。

 

 式台から左側は矩折で「次の間」「上の間」と並ぶ接客空間となり、この「上の間」は床・違い棚・付書院を設けた格式の高い端正な書院造の座敷。天井が高いせいか、一般の民家より高い位置に欄間があります。「次の間」には「黄林閣」の扁額が掲げられており、これは満州国総理だった鄭孝胥の筆によるもの。
 耳庵はこの住宅を移築した当時はそれほど茶道に深く関わっていなかった頃なので、いわゆる一般的な茶室は作られていませんが、一番北側にある6畳の「奥の間」を数寄屋風に改造しており、ここで茶事を行っていただろうと見られています。この「奥の間」の手前にある「中の間」の襖に扇面を描いた煌びやかな琳派風の絵が描かれており、豪農屋敷の中ではかなり異色な組み合わせ。耳庵が東京国立博物館へ寄贈したコレクションの中に伝俵屋宗達筆「扇面散図屏風」(重要美術品)があるので、おそらくそれに因んで作らせたものなのでしょう。この一画は耳庵の趣味がよく出た空間です。

 

 

 

 「上の間」の付書院には、幾何学的で精緻なデザインによる欄間があり、長押にも七宝による釘隠しが使われるなど凝った意匠が色々と見られ、扇面の襖絵同様に豪壮さと優雅さが融合したような意匠となっており、このあたりも耳庵ならではの個性なのかもしれません。
 廊下の板戸にも様々な絵が彩られています。

 

 

 この旧村野家住宅を移築し改造した後に、耳庵は次々と敷地内に茶室・数寄屋を建造・移築しており、盟友の原三渓から贈られた「春草蘆」と呼ばれる河村瑞賢好みの茶室や、織部好みの四畳半の茶室「耳庵」を建造したりと茶道三昧の日々を始めていたようなのですが、今残されている建物は「黄林閣」から渡り廊下で連なる「斜月亭」と「久木庵」だけ。「斜月亭」は夫人用の居室で、男性的でスケールの大きな「黄林閣」とは対照的な女性的な小振りの数寄屋風建築。屋根が切妻造りの桟瓦葺による木造の平屋建てで、1938年(昭和13年)から翌年にかけて建造されています。

 

 

 内部は8畳の「上の間」と6畳の「次の間」、それに表5畳の寄付で構成されており、寄付には「斜月」の扁額が掲げられています。こちらは近衛文麿の手によるもの。この建物の最大の特徴は寺院の古材を組み合わせて造られていることで、奈良の東大寺や葛城の当麻寺の廃材を多く採用しているようです。戦前は寺院の古材を使って茶室や数寄屋を造ることが流行していたようで、三渓園の「蓮華院」や「金毛窟」に三井家の大磯別邸「城山荘」にも同様の趣向が見られます。特に主室である「上の間」の書院棚は手斧の凹凸がくっきりと浮き出た厚板を嵌め込んでおり、おそらく須弥檀の床板を転用したものだとか。床柱にも風蝕した4寸の太い丸柱を採用しており、これも厨子の部材の転用との説があります。襖絵には金地に緑青の萩による図案の絵が描かれていますが、「黄林閣」の扇面の襖絵同様に琳派風のもので、どうやら耳庵は琳派がお好みだったらしく、現在は福岡市美術館に収蔵されている尾形乾山筆「花籠図」(国重文)もコレクションの一つだったもの。この「斜月亭」の瀟洒な数寄屋空間と酒井抱一風のこの襖絵は違和感が全く無く、美しいコラボレーションと言えるでしょう。

 

  

  

 この斜月亭の中を渡り廊下が貫きますが、ここでも皮付丸太や竹をあしらった数寄屋風の設えで、舟底天井の箇所もあったりします。奥には囲炉裏の切られた座敷もあり、その裏には風呂もあるなどここだけでも十分暮らせるほど。

  

 渡り廊下の一番奥に「久木庵」があります。千宗旦好みと伝えられる茅葺の草庵風の茶室で、二畳台目の小間と水屋で構成されており、1939年(昭和14年)に移築されています。とても簡素で落ち着いた造りで、給仕口の構成も含めて大徳寺高桐院松向軒に似ています。この茶室が敷地内最奥にひっそりと佇んであるので、「斜月亭」を待合代わりに使っていたのかもしれません。

  

 今ではもう失われてしまった武蔵野の雑木林をそのまま活かして、木々の中に調和を保ちながら各建物は程好いバランスを持って配置されており、その間を狭い渡り廊下が交互に繋ぎます。森の中に土塀や飛石が並ぶ光景はノスタルジーを喚起させるもので、ドラマや映画のロケにでも使えそうです。

 

 



  「柳瀬荘」
   〒359-0012 埼玉県所沢市大字坂の下437
   電話番号 0429−44−2009
   公開時間 毎週木曜日 4月〜9月 AM10:00〜PM4:00
                  10月〜3月 AM10:00〜PM3:00