小泉八雲旧居 (こいずみやくもきゅうきょ)



 訪日してそのまま在住する欧米人の中には、例えばゲイとかユダヤなどいわゆるマイノリティーが多い傾向があるようで、本国だと差別等によって居場所が無かったり、そもそもマジョリティ側はあえて極東のちっぽけな島国に大して関心も持たないでしょうしね。明治期に来訪したパトリック・ラフカディオ・ハーンもアイルランドとギリシャのハーフとして産まれ、幼い頃に両親が離婚し大叔母に預けられるという孤独な少年時代を過ごし(ジョン・レノンと似た境遇)、10代で単身米国へ渡って職を転々としながら貧困に喘ぎ、黒人女性と同棲したりカリブ海のマルティニック島で生活するなど色々とあって、日本にやってくるのは39歳の1890年(明治23年)4月のこと。順風満帆な人生とはとても言えない裏街道みたいな境遇を歩いて来た中年男が、遥々海を越えて未知の東洋の小国へ流れ着いたとも言えるわけで、なんとなく画家のポール・ゴーギャンの姿とダブります。そう言えばこの二人、マルティニック島でも一緒でしたね。
 そのハーンは当初はハーパー社の通信員として来日しましたが、居住する目的なのでとっとと契約を破棄し、御雇い外国人のチェンバレン東大教授と知遇を得て文部省の紹介で松江へ英語教師として赴任するのは来日してから4ヶ月後の8月のこと。この夏から山陰の古都を訪れたことが一つキーポイントで、やがて秋を迎えるこの頃が一番松江が美しい時期であり、出雲独特の神秘的な風土も相まって深く感動し、後年発表する作品群に結び付くのでしょう。

 

 ハーンが最初に住んだのは、中海と宍道湖とを結ぶ大橋川沿いの京店地区。松江城下の京風の街並みを見せる商業地で、川端の二階建ての町家を借りていたようですが、天井が低くて外国人のハーンには狭すぎ、湿気も高く蒸し暑さに耐えかねて、翌年の1891年(明治24年)6月に城の北側の塩見縄手地区に引っ越します。ここは御堀端の閑静な住宅街で、中級武士が暮らした武家屋敷街。ハーンの移り住んだ家も旧松江藩士の邸宅で、当時出雲市の群長を務めていたことから空き家となっていたのを借りたようです。今でも当時の大家の子孫が管理しており、一部を公開しています。

 

 建物は1868年(明治元年)に建造された木造平屋建てで、屋根が桟瓦葺による寄棟造りの外観に、式台付きの玄関や門横の供侍小屋も備えた格式の高い造り。内部は部屋数も多く大小11部屋あり、ハーンも「どの部屋も天井が高く、ゆったりとして美しい」と気に入っていたようです。
 式台から矩折りの接客用の座敷が並び、一番奥の北西隅の六畳間がハーンの書斎だった部屋。ここにハーン特注の脚の長い文机が置かれてあります。ハーンは少年時代に左目を失明しており右目の視力も弱い為、机に顔をこすりつけるようにして読書・執筆していたようで、このような脚長の机が必要だったとか。机の上には家族を呼ぶ為の江の島で購入したホラ貝もあります。

 

 

 ハーン一番のお気に入りだったのが庭。邸宅を取り囲むように三方向にひと続きの庭が広がっており、帰宅後は着替えてまず座敷に座って、心行くまで庭園の風景を楽しんでいたようです。特に北側の池庭が殊の外お好みだったようで、池に浮かぶ小島を小人の国になぞらえて蜃気楼のような幻想的な情景をそこに見ていたようです。
 当地で武家の娘であるセツ夫人と結婚し、帰化して小泉八雲と名乗るほど深く愛した松江の地ですが、冬の寒さと大雪には相当堪えた様で、その年の冬が来る前の11月に熊本へ転任しています。幼少期からの境遇からか一つの場所に居続けられないデラシネ(根なし草)的な気質もあるのかもしれませんね。

 

 



 「小泉八雲旧居」
  〒690-0888 島根県松江市北堀町315
  電話番号 0852-23-0714
  開館時間 4月〜9月 AM8:30〜PM6:30
         10月〜3月 AM8:30〜PM5:00
  休館日 年中無休