旧手代木家住宅 (きゅうてしろぎけじゅうたく) 福島県指定文化財
喜多方の蔵造りの街並みが形成されたのは近代に入ってからのことで、市内で一番古い土蔵は幕末の文久年間に建造された島三商店とのこと。そうすると江戸期までは木造の民家がごく普通に建ち並んでいたはずで、明治初期の大火によって何もかも焼き払われて土蔵が密集する街並みが形成されたわけですから、今に見られる風景は近代化遺産における実例とも言えるわけです。近世までの喜多方の原風景的な遺構は、郊外の新宮熊野神社長床や勝福寺観音堂等に見ることが出来ますが、住宅物件として下三宮地区にあった手代木家住宅が喜多方プラザ内に移築されています。
下三宮地区は喜多方の中心部から約1q程離れた濁川沿いの小さな集落で、明治期の大火に罹災しなかった場所。今でも水田に囲まれた長閑な農村といったところですが、手代木家は江戸後期の天保年間(1830年〜1844年)に肝煎役として赴任した家柄で、その着任した際に新築されたものです。いわゆる代官役としての威厳を示すために大型化された農家建築で、外観は寄棟造りの茅葺屋根に茅の庇を取り回し、屋根上に煙出しを二か所乗せた堂々たる姿。
この住宅の最大の特徴はその間取り。正面からは東北地方に多い曲屋造りや中門造りに見えますが、実は背面に回ると凹型に突き出しており、とても複雑な平面を持っています。当初は桁行八間奥行四間の居住棟の中央からT字型に桁行六間の座敷棟を出し、居住棟の反対側に桁行五間半の馬屋棟を突き出した構成でしたが、幕末に座敷棟の先端部に鉤状で新座敷を付加したのが今に見る姿。曲屋に鉤状で接待空間として座敷部が延ばされたというわけですね。
内部はその鉤状に突き出した部分を除くと、広い土間に板の間と畳敷きの部屋が田の字型に並ぶ四間取りとなり、とても薄暗く質素で閉鎖的な空間が広がります。土間部が広いのは雪深いこの地方ならではで、冬季の作業場でもあったのでしょう。竈や馬房も備わっています。
囲炉裏も切られた「ごようのま」はこの住宅の中心となる場で、肝煎役として年貢や村人の出生死亡に婚姻等の管理業務の執務所でした。まあ村役場みたいなものですね。ここから座敷部が突き出しており、次の「さんのま」から「のっこみ」「つぎのま」と三連で畳敷きの部屋が並びます。「さんのま」は肝煎の控えの間で、「のっこみ」は武士の玄関、そして「つぎのま」は上級武士の御付の家来の控え間になります。この「のっこみ」は会津地方独特のシステム。
「つぎのま」から矩折で「おくのま」が連なり、床の間に付書院や天袋も付く書院造りの座敷と変わって、家老クラスの上級役人を接待する場となるわけです。幕末に増築しているのは会津戦争に絡んだ話なのでしょうかね?廊下の柱には明治元年に勃発した一揆の傷跡が残されています。激動の時代でしたからね。福島県指定文化財。
「喜多方蔵の里」
〒966-0094 福島県喜多方市字押切2-109
電話番号 0241-22-6592
開館時間 AM9:00〜PM5:00
休館日 年末年始