天鏡閣 (てんきょうかく) 重要文化財
天皇家の遠縁にあたる四親王家の一つである有栖川宮家は、戊辰の役や会津戦争で大総督を務めたことから功労賞みたいなものだったのでしょうか、明治期に都心の一等地ばかり大豪邸を三つと全国の風光明媚な景勝地に別荘を三つばかり構えていました。他の宮様からするとそれはもう別格物で、霞ヶ関の本邸にはコンドル設計の洋館二棟と和館が立ち並ぶ御屋敷が、麻布には今は記念公園になっている広大な別邸があり、巣鴨にも風雅な庭園を持つ「紅緑荘」と呼ばれる紅葉の名所だった別邸もありました。それだけではありません、葉山の御用邸近くにも別荘を設け、遠く神戸の海浜に松林が広がる舞子の地にも別荘も造り、そして東北の猪苗代湖畔には三階建ての白亜の洋館を建てています。優雅なロイヤルファミリーの暮らしぶりが伺えるわけですが、戦前に有栖川宮家は廃絶し、空襲等もあって今に残る物件は猪苗代湖畔の別荘一軒のみ。しかしながらこの残された唯一の別荘はグレードの高い明治期の洋風建築としても知られており、国の重要文化財の指定も受けています。
この別荘を構えたのは第十代威仁(たけひと)親王で、最後の有栖川宮となった宮様。1907年(明治四十年)に御料地である当地の猪苗代湖畔に赴いて別荘の建設を思い立ち、雪解けを待って翌年(1908年)の春から突貫工事で夏の八月には竣工したというエピソードがあるそうですが、そもそも大正天皇の皇太子時代に東北巡遊する予定があり、先乗りで前年に視察に訪れて専用の宿泊施設を新たに造る必要性が生じたのが本当の経緯で、実際に大正天皇が行啓した以降は有栖川宮自身は二回しか使用していません。遥かに遠い須磨の別荘で晩年を過ごし没するのとえらい違いです。あくまでも天皇専用の迎賓館として企画されたものですから洋館しかなく、すぐ近くにある和館の翁島別邸は没後に建てられた有栖川宮と無関係の物件ですし、麻布・巣鴨・葉山・舞子の別邸・別荘が全て和館のみという点で見てもその特異性がわかります。
で、その洋館のみで構成されたこの別荘は大正天皇が行啓した際に、眼下に見下ろせる猪苗代湖を鏡に準えて「天鏡閣」と命名しています。長浜と呼ばれる静かな入り江から、少しばかり上がる開けた小高い丘の上に白亜の洋館が建つわけですが、往時は眺望も開けてというかまあ天皇の為に伐採したおかげで湖の絶好のビューポイントだったようですけれど、今は喬木が取り囲んで何にも見えません。しかも周囲の森は湖畔で湿っぽいせいか蛇がウジャウジャいて要注意!
北西隅に赤煉瓦の表門が建ち(これも国重文)、森の中の緩い坂道を少し上がると二階建ての洋館が見えてきます。嘗ては自動車庫・消毒所があり、湖畔には御船屋形も舫ってありましたが、北側にある事務所以外は破却されています。有栖川宮没後は高松宮(昭和天皇の弟)が継承し使用していましたが、第二次世界大戦後の1952年(昭和二十七年)に福島県へ下賜されて今に至ります。
皇室の行啓宿泊施設として建造された洋館と言えば、鳥取市にある仁風閣(1907年)と松江市にある興雲閣(1903年)等が知られていますが、いずれも建築年代が近く大正天皇皇太子時期のもの。特に前年に建造された仁風閣と共通性が高く、木造二階建てに塔屋を付けて、外壁にドイツ式下見板を張って白ペンキを塗り、北米系ステイックスタイルにフレンチルネサンス様式が混入するという外観は、この時期の宮内庁得意の手法です。仁風閣は迎賓館赤坂離宮でも知られる片山東熊が手掛けているので、この天鏡閣にも関与しているのかもしれません。
仁風閣と異なるのは屋根が天然スレート葺になることと塔屋を上に乗せていることで、この八角塔屋は四階建て分の高さがあって各方向に窓が開けられており、建物自体が展望台としても機能していることが伺えます。その為かシンプルな形状の仁風閣に比べると形状に変化があり、洋館に多いシンメトリックな平面構成とはならずに凹凸の多い壁面で、特に南側の凹んだ中間部には庭園に突き出すようにベランダが付けられ、コリント式の柱頭を持つ列柱が並びます。このベランダのある二階の部屋には宮様が滞在する際の私室として使われる御居間があり、何時でも湖の風景を愉しまれる為の措置とか。
内部の配置構成も複雑になり、西側にバルコニー付きの車寄せを付けてその奥に一直線に廊下が走り、廊下の両端に階段ホールが付き、廊下の南側は宮様向けの迎賓的な空間を、北側は使用人向けの使役的な空間が並ぶ構成。南側はどの部屋も窓が広く採られた明るく眺望の良い空間ですが、北側は反対に閉鎖的で小暗い空間が並びます。すごい格差。その迎賓的な南側も一階が公的な空間なので何れも三十畳以上分の大広間スタイルで構成されますが、二階はプライベート空間となる為に細かく区分けされます。
玄関から中に入ると階段ホールにもなっている外広間。白漆喰の天井と壁にシャンデリアを吊り下げたシンプルな意匠の空間ですが、壁面に暖炉が備え付けてあり、白大理石の前飾りやその上の鏡縁に当時流行のアールヌーボー様式の紋様が見られます。因みに各部屋には必ず暖炉があり、寒冷地で雪の多い地方でしょうからね。
外広間から順に次は食堂となり、こちらは同じく天井は白漆喰ですが壁面が灰墨を混ぜた薄鼠色に変わって、腰に羽目板が取り回す端正で落ち着いた空間。なんでも17世紀イギリスの質実剛健なジャコビアン様式の家具で食事をなされていたそうで、ここでも重厚な彫刻を施したジャコビアン様式のインテリアが並んでおり、例えばカーテンの吊り器具や暖炉の装飾に見られます。因みに暖炉のタイルはイギリス製で、その上の鏡の縁飾りに有栖川宮家の紋章が入ります。
隣は客間でこの建物で最も格式の高い部屋。その為か意匠も18世紀フランスの優美なロココ調に変わり、カーテンの吊り器具や暖炉上の鏡縁に特徴が出ていますが、特にシャンデリアが非常に手の込んだ造りで、電灯の上には天使が飛び交う華麗なものです。ここで優雅にお茶の時間でも過ごしていたのでしょうか。
お次の部屋は撞球室で、宮様の御用邸では御馴染のもの。日光田母沢や沼津の御用邸にもあります。この部屋でユニークなのが玉突台の上に天井から吊り下げられた照明器具で、四つ球式でゲームが行われていたことから台上の玉に影が出来ない為に四個の電球で照らし出す仕掛けです。因みに玉突台は既に失われており、置かれてあるのは原三渓が所有していた明治期のアメリカ製四つ球式のもの。
二階は畳敷きの部屋が並びますが絨毯を敷いて洋間として使われており、御用邸や離宮でも同様に使われています。一番湖に近い南東隅の十八畳が御寝室となり、その隣が十五畳の御座所で、この二室が主人の私室となる空間。御座所は書斎としても使われたそうで、特に暖炉上の鏡の妻縁はペディメントやオーダーが付いた神殿のような意匠です。
この御寝室には御化粧室と御厠が付属しており、特に御化粧室の洗面台や北側にある付属室の洗面台にはアールヌーボーの装飾が見られます。
御座所の隣が二間続きの十五畳の御居間で、特に天井のシャンデリア周りに変化を付けており、コーナーが大きく面取りされているのに呼応するように八角形に折り上げています。他の部屋に比べると装飾性が希薄な空間ですが、このコーナーの大きな面取りと八角形の天井部によって優美な印象が与えられています
本館から離れて北側に事務所として使われた別館があり、内部はとても簡素な部屋が並びます。やはりひどい格差。こちらも国の重要文化財指定です。
「天鏡閣」
〒969-3285 福島県耶麻郡猪苗代町大字翁沢字御殿山1048
電話番号 0242-65-2811
開館時間 5月〜10月 AM8:30〜PM5:00
11月〜4月 AM9:00〜PM4:30
休館日 年中無休