修学院離宮 (しゅうがくいんりきゅう)
京都洛北の比叡山の麓にのこる修学院離宮は、桂離宮と並んで宮廷文化・公家文化を代表する名園ですが、造営された時期が比較的近いのにもかかわらず、この二つの離宮は不思議と対照的に相反する内容を持っており、一概に宮廷文化の象徴と一括りに出来ない多様性・固有性が見られます。例えば桂離宮が平面的・閉鎖的・東洋的とするならば、修学院離宮は立体的(又は重層的)・開放的・西洋的とキーワードが並び、桂の精緻な箱庭的な構成に対して修学院の雄大でスケールの大きな構成はテーマパークを彷彿させます。また桂の池の周りに四季を織り込んだ茶屋が点在する情景はポエジーで文学的な香りがありますが、修学院の広大な敷地に上中下の茶屋が配された光景はポリフォニックで交響楽的な響きが感じられます。桂がドビュッシーかラベルの作品なら、さながら修学院はブルックナーかマーラーのシンフォニーの様。この差異は造営した桂の八条宮親子と修学院の後水尾上皇の性格がそのまま反映されているようで、古典に精通した文学者でもあった八条宮に対して、ダイナミックでスケールの大きな芸術家だった後水尾上皇の趣味嗜好が、この修学院離宮には色濃く出ているようです。
修学院離宮は、江戸初期の17世紀中頃に完成した後水尾上皇の別荘で、当時幾つか造られた別邸の一つだったようです。後水尾上皇は慶長年間に即位した天皇でしたが、徳川幕府の度重なる理不尽な干渉工作に嫌気が差し、1629年(寛永6年)に34歳でとっとと退位し、上皇として後は楽隠居を決め込んで趣味の茶・書・花・詩といった文化芸術面に没頭した御仁でした。この上皇は大変な芸術家で、今に残る京都の雅な文化遺構の大半はこの上皇が係わっており、この修学院離宮を始めとして仙洞御所・円通寺・伏見稲荷御茶屋・水無瀬神宮燈心亭と、京都でも屈指の庭園や建造物の設営を手がけています。曼殊院や仁和寺にも深い関係があります。
隠居後は洛北の岩倉や幡枝(今の円通寺)の別邸で遊行を楽しんでいましたが、かねてから離宮の造営を計画していたようで、比叡山の麓の田園地帯に所望する土地を見つけ、1659年(万治2年)までに離宮の造営がほぼ完成しました。わざわざ模型を作ってまで陣頭指揮して造営にあたったそうで、完成後は度々行幸し楽しんで行ったようです。
敷地面積は54万5798㎡もあり、東京ドームで言うと約12個分の広さ。この広大な敷地に上・中・下と3つの御茶屋が配され、その周囲を水田や樹林が覆う構成です。拝観入り口は下茶屋にある総門で、桂離宮と同じ竹を縦に並べた簡素な扉。この総門は造営当初には無く、周囲を遮る生垣と共に明治期に離宮と定められてからの措置で、以前は周囲との境界をあいまいにぼかして、もっとさりげなく存在されていたようです。
下茶屋は一番最初に完成した御茶屋で、最も里に近く今でも周辺は閑静な住宅街が広がります。行幸の際のいわゆるベースキャンプだった施設で、ここでまず一息いれてから上の茶屋へ向かったとか。総門を潜りしばらく緩い登り坂の砂利道を進むと右手に下茶屋の入り口である御幸門が現れます。柿葺の屋根の付いたこじんまりとした門で、扉には花菱紋の透かし彫りが入っています。当初はこれよりもっと右手にあったもので、後年の改変で今の位置に移動しました。
下茶屋の中心となる施設は寿月観という名の建物で、御幸門を潜り次にすぐ右手の中門を潜ると、この寿月観の玄関である御輿寄があります。貴人の来客があるとここまで輿に乗って昇降されるのですが、上皇は殆ど使われなかったようで、そのまま苑路の庭園を通って寿月観の濡縁まで進んだとか。木立が多く杉苔の美しい池泉回遊式の庭園です。
この庭園は数種類の灯籠が点在して配されていて、特に池の中島に置かれた大きな切り欠きのある灯籠は袖形灯籠と呼ばれる名高いもの。鰐の口にも似ることから鰐口灯篭とも呼ばれています。池の畔に据えられた背の低い灯籠は朝鮮灯籠と呼ばれ、朝鮮の寺院で多く見られる様式のもの。他にも櫓形灯籠など個性的な灯籠が点在しています。
この庭園を抜けて木立の中の緩い石段を登ると白砂の開けた場所へ出て、眼前に寿月観が現れます。寿月観は木造平屋の数寄屋建築で、L字型の平面に御輿寄の部分が突き出た構成です。屋根が柿葺で入母家造りと寄棟造りがL字型に合体した構成。この建物は当初から在る物ではなく、岩倉の別邸にあった建物を移築したもののその後失われ、1824年(文政7年)に忠実に復元されたものです。ちなみにこの離宮の建物は当初からのものは少なく、大半が復元されています。庇下に掲げられる扁額は、後水尾上皇の宸筆。
間取りは屋根が寄棟で、東南が開けた庭園の眺めが良い15畳の座敷が一の間となり、屋根が入母家で東側が庭に面する12畳と6畳の座敷がそれぞれ二の間・三の間となって、これに10畳半の御輿寄と三の間の裏側に5畳の茶室が付属します。一の間は上皇行幸の際の御座所で、奥3畳分が上段になり、1畳半の床と琵琶床と飾棚が付いた格式の高い空間。棚の戸袋には鶴の絵が、地袋には蘭の絵が描かれており、それぞれ江戸後期の絵師だった原在中の手によるもの。また二の間の杉戸には岡本豊彦の筆による夕顔の絵が描かれており、これは仙洞御所から移築したものです。他にも一の間の襖4枚には岸駒の筆による虎渓三笑の絵が、三の間の襖にも岡本豊彦による泊舟の絵が描かれていますが、当然復元後に江戸後期の絵師に拠り描かれたものなので、上皇の趣味とは別個のものと考えたほうが良さそうです。
この寿月観の前に遣り水を引いた庭が広がります。一番北側に滝口を設け、そこから湾曲しながら楓の多い苑内を寿月観を回り込むようにして流れ、やがて下の池へ注ぎ込む構成で、優しく典雅な趣の庭です。この滝口は白糸の滝と呼ばれ、丁度一の間の上座の目前にあたり、その水音が涼やかな音色をたてて中々乙な風情。この水路は上茶屋から流れ来るもので、同じ水を使いながら全く異なる景観を作り出しており、関連性も持たせながらの構成力は見事です。またこの下茶屋は木立が多く周囲の景観が遮られていて、桂離宮の様に閉鎖された空間のように感じられるのですが、これがこの後の大きな仕掛けになっています。
白糸の滝の横を抜けてさらに苑路を進み、石段を登り裏門を出ると周囲は見渡すばかりの段々状の水田が広がります。皇室は元来日本の稲作文化の象徴的な存在で、その祭司でもあったことからか田園生活がことのほかお好みの御方が多かったようで、この後水尾上皇も田畑で勤しむ農民の姿を愛でる趣味があり、この離宮の造成にあたって美しい棚田を取り込むような計画をたてたようです。今は明治期に拡張された背の低い松並木が各茶屋を結びますが、以前は田圃の畦道を辿って上茶屋へ向かわれたそうで、自然のままのさりげない田園風景を楽しんでいたのでしょう。この田畑は今でもせっせと農家の方たちが野良仕事をされているようで、300年以上も変らずにこの美しい風景が保たれているようです。
下茶屋から松並木はすぐ二手に分かれ、南へ平坦な道を進むと中茶屋へ、東へ山に向かって緩い上り坂を進むと上茶屋へ至ります。中茶屋は造成当初には無かった施設で、上下の茶屋が完成した10年後の1668年(寛文8年)に上皇の第八皇女だった朱宮(あけのみや)光子内親王の御所として造られたものを前身としており、その後朱宮内親王が仏門に入り林丘寺として尼寺となっていたのを、1885年(明治18年)に一部の建物を皇室に返還されて茶屋としたものです。つまり当時の修学院離宮は上茶屋と下茶屋との二つのみで構成されていたわけです。ただしこの中茶屋にある楽只軒は上皇自ら作らせた山荘で、ちょくちょく立ち寄られて娘の様子を伺ったいたようですね。
通用門から中へ入ると木立に囲まれた広場となり、奥手に緩い石段の道が続きます。この広場の白砂は銀閣寺の銀沙灘と同じ白川砂で、木々の緑が程良く映えて明るく清浄な印象を与えています。クランク状の石段を進むと小さな中門があり、その奥にひっそりと佇む茶屋があるので、周囲の段々畑が広がる田園風景との間のワンクッション的な場所なのかもしれません。
中茶屋は楽只軒と客殿の二つの建物で構成されており、コーナー同志が階段によって連結されています。中門に近い楽只軒は中の茶屋創設当時からある数寄屋風の茶屋で、その名の「楽只(らくし)」は上皇自ら詩経より命名されたもの。
外観は瓦葺平屋の丈の低い建物で、池の広がる庭園側の南面は広い縁側と深い柿葺が取り付きます。この庭園の風景を愉しむ為の茶屋だったようで、庭と対峙するように縁側の奥は畳一畳の入側が走り、その奥の「立田の間」と呼ばれる八畳間と東側に六畳間が並んでいます。いずれも上品でシンプルな意匠で構成された宮廷好みの茶屋で、龍田川の紅葉や吉野の桜を題材とする襖絵・障壁画が並ぶ空間は、優しく女性的な趣が強く感じられます。
内部の壁が一部汚れているのは、何でも林丘寺三代の尼宮が疱瘡にかかったとかで、平癒祈禱の護摩を焚いた為に黒く煤けたことから。
楽只軒に連なる客殿は、上皇の皇后だった東福門院の御所の建物を移築したもの。1678年(延宝6年)に東福門院が亡くなった後の1682年(天和2年)に、女院御所の奥対面所から移したもので、外観は屋根が入母屋造りの木賊葺による御殿風の建物です。隣の楽只軒と比べても丈が高く堂々としており、移築したこともあって離宮全体の茶屋群でも異色の存在。
この離宮の建造物は全般にどちらかというと地味で簡素なものが多いのですが、この建物だけ明白にトーンが異なります。特に一の間の襖や壁には金泥の雲に市松模様の色紙が貼られ、腰貼りには金と群青との菱繋ぎによる目にも鮮やかなものが使われて強いコントラストを放ち、さらには床脇に五枚の欅の棚板を巧妙に組み合わせた飾り棚が宙に浮かび、その下の地袋には極彩色の絵が描かれた豪華な意匠。
特にこの飾り棚は「霞棚」として世に名高いもので、桂離宮の「桂棚」、醍醐寺三宝院の「醍醐棚」と共に天下の三棚と称されています。東福門院は尾形光琳の実家である呉服商の雁金屋のパトロンだった方で、光琳のあの鋭敏な感性の礎になったのはこの東福門院が元になっており、その意味ではこの一の間の意匠はその後の琳派に連なるものと言えるかもしれません。
またこの一の間の入側の杉戸にはやはり極彩色の絵が描かれており、祇園祭の山鉾と鯉が題材。ちなみにこの鯉の絵はあまりにも精巧に描かれていることから夜毎抜けて庭の池に逃げ込むそうで、あとから網を書き加えたという逸話も有ります。
隣の二の間もゴージャスな内部空間で、東西南北の四枚の襖にそれぞれ「長谷寺の桜(春)」「宇治の橋と柳(夏)」「住吉の秋」「比良の雪(冬)」と四季を織り込んだ風景画が描かれており、別名「四季の間」とも呼ばれています。
また一の間の裏側には仏間である「御内仏の間」があり、その北側の濡縁には木組みの手摺が張り巡らされています。この手摺のデザインが魚網を干したような形に見えることから、「網干の欄干」と呼ばれる名高いもので、後世の数寄屋建築によく採用されています。
この中茶屋の庭は尼寺だったらしく樹木に覆われたひっそりとした侘びた庭で、静寂とした森の中に隠れるような趣があります。典雅な下茶屋や雄大な上茶屋の庭とは異なる、凛とした佇まいの庭です。
元来た松並木を三叉路まで戻り、今度は上茶屋へ向かいます。上茶屋はこの離宮全体の中心となる場所で、下茶屋は如何にこの上茶屋での景観を効果的に見せる為に用意周到に造成されたものかが判ります。まず下茶屋と上茶屋は標高差で20m程あり、さらに上茶屋でその景観を最も美しく見せる小高い丘上に立つ隣雲亭まではさらに10m程の標高差があり、閉鎖的で視界が遮断された下茶屋からこの隣雲亭まで標高差を稼ぎながら、壁の様に立ちはだかる大刈り込みの中をジグザグに登ってようやく眺望が開けるという構成は劇的で、上皇の巧みな構想には舌を巻きます。
その隣雲亭前に広がる眺望は人口に膾炙した存在でこの離宮の代名詞的な風景ですが、確かにあらゆる日本の庭園の中でそのスケールの大きさや構成力においてこれだけ超越したものはちょっと他には無いでしょう。遥か鞍馬山系を借景として谷川を堰き止められた浴竜池が漫然と水を湛えた風景は、ちまちました箱庭的な日本庭園とは異質の西欧的な感性が強いものです。どこか19世紀ドイツロマン派の小説(ノヴァーリスやシュトルムあたり)にでも出てきそうな山上湖の宮殿庭園を髣髴させます。瞠目すべきは上皇の大胆な発想力で、ただの山裾の小さな谷間に過ぎないこの地に、西側に堤防をこさえる事によって巨大な池を造り中島を浮かべ滝を落とすという、まさにバビロンの空中庭園さながらの光景を、山中に出現させてしまうそのイマジネーションの豊かさは、只者ではないですね。
隣雲亭は、その名の通りに雲に近い苑内で一番高い場所にある茶屋で、木造平屋建ての柿葺の屋根に、南・西面に深い土庇を付けた外観。当初のものは焼失し、今あるのは1824年(文政7年)に再建されたものです。高い場所にあるせいか風害予防の為に屋根の勾配がとても緩く、庇も深いこともあって優しく軽快な印象を与えています。内部は6畳の一の間と3畳の二の間に4畳程の洗詩台と呼ばれる板の間が庭園に面して直列に並び、背面に従者用の眺望の無い座敷が3部屋並ぶ平面構成で、あくまでも眺望を楽しむ為にか床や棚も無い虚飾を拝した極々シンプルな意匠。
一の間の隣で一番北側にある洗詩台は吹き放しの風通しが良い板の間で、上皇の趣味だった詩を練る場所だったそうです、小鳥の囀りや裏手にある滝の音も聞こえるより自然に身近い環境で、高歌放吟でもしていたのでしょうか?土庇の下は漆喰のたたきになっていて、その床に赤い鞍馬石と黒い賀茂川石を転々と配した文様が施されています。1・2・3個ずつ花びらの様に散らした意匠で、「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれる名高いもの。小動物の足跡にも見えます。
この隣雲亭から大滝の前を抜け深い木立の池畔の小径を進むと、3つある中島へと渡ります。それぞれタイプの異なる橋が架けられており、特に一番南の中島と中央の中島とを結ぶ「千歳橋」と名付けられた石橋は中国風の屋根を載せた風変わりな橋で、造営当時には無く後年京都所司代が寄贈したもの。明らかに他の建造物とは調和性を欠いた大名趣味のもので、かのブルーノ・タウトが罵詈雑言の嵐を吹きまくったことでも有名。この橋以外の美しい欄干を添えた優美な反りの「楓橋」や「土橋」は、タウトが今度は激賛しています。
その楓の木立に囲まれた「楓橋」を渡って中央の中島に入り、その小高い頂の上に小さな茶屋が建てられています。窮邃亭と呼ばれる建物で、木造平屋建ての屋根が宝形造りの柿葺。この建物だけ苑内で建設当初から残るもので、築350年程経っていますが、文政年間に大修理があったそうなので、部材は殆ど変っているのでしょう。扁額の文字は後水尾上皇の宸筆。内部は18畳敷きの一室のみで、西と北側に矩折で6畳の上段とした構成。隣雲亭同様に床や棚も無い簡素な設えで、北面に茶事用に水屋があるのみです。この窮邃亭の最大の魅力はその開放感で、南面と東面は障子戸による出入り口で全て取っ払う事が可であり、また北面と西面は大きな障子窓が連続して並ぶ、東西南北フルオープンの状態。このパノラマビューの窓は、外部の風景がそのまま部屋内に飛び込んでくるまさに透けきった作りなのですが、外の突き上げ式の板戸を跳ね上げて使えば、陽射しを避けながら眺望も楽しめる中々ユーティリティなシステムです。バードウオッチングの観察舎にも見えますが・・・。
この中島から土橋を渡ってさらに池畔を進むと、岸辺に屋根付きの小舟が舫ってあります。この浴竜池では舟遊びも遊興されたそうで、石造りの舟着き場もあります。
その舟遊び用にか中島の一つに舟着場付きの腰掛があり、ここでもまた景色を楽しまれていたのでしょう。ちなみに英国皇室のチャールズ皇太子とダイアナ妃が参観した際も、ここで景色を楽しまれたとか。その腰掛から見えるのは浴竜池の西浜で、海浜に似せた伸びやかで開放的な風景。隣雲亭からのダイナミックな眺望を動とすると、こちらは静ともいえる程にどこか淋しげな、センチメンタルな情緒も含んだ眺めで、そのコントラストを付けた構成も特筆です。
その西浜はこの浴竜池の堤防となり、高さ15mの石組みを四段に積み、延200mの長さに渡って水を堰き止めています。このダムを隠す為に下から三段の生垣を造り、その上を大刈り込みで覆います。この大刈り込みは50種類近くの様々な植木を混ぜて構成されており、周囲の山々や樹林と何の違和感も無くさりげなく風景に溶け込んでいます。この大刈り込みと棚田の取り合わせがこの離宮の景観を決定付けているものであり、実は最大のハイライトでもあります。
「修学院離宮」
〒606-8052 京都府京都市下京区修学院藪添
電話番号 宮内庁京都事務所参観係 075-211-1215
参観は事前予約 参観希望日の3ヶ月前の月の1日から往復はがき・宮内庁webサイトで予約し抽選
すぐ締め切られる 18歳以上
参観休止日 土・日曜日 国民の祝日 12月28日~翌年1月4日
但し第3土曜日と、4・5・10・11月の土曜日は参観可