松殿山荘 (しょうでんさんそう)



 JR奈良線に木幡(こはた)駅というちっぽけな駅があります。京都市を外れて宇治市へと入った二つ目の駅で、周囲は低層マンションや建売住宅が建ち並ぶ典型的な郊外の住宅地といったところ。特筆すべきものは何も有りません。駅前の閑散とした路地を東へとり、よくある宅地造成された街並みを抜けて駅から5分程進むと、突然樹木がジャングルのように鬱蒼と生い茂った一画に出くわします。舗装された公道が途切れてそこから砂利道が延々と奥に進み、その先に何があるかわからないミステリースポットのような風情ですが、ここはさる茶道会の本部で、関係者以外はサンクチュアリとなっている場所。門など無いので近所の犬の散歩除けの為でしょうか「マムシ注意」の立て札がそこらじゅうにあります。

 

 そのさる茶道会とは「松殿山荘茶道会(しょうでんさんそうさどうかい)」という組織で、戦前の昭和初期に設立された流派。明治期に東京控訴院判事を務めた弁護士の高谷宗範(たかやそうはん)が私財を投げ打って10万坪の敷地を買い取り、ここに茶道の道場を開いたのがその始まりで、会の名も王朝期にこの地で関白藤原基房が”松殿”と呼ばれる別荘を構えていたことから命名されています。
 この流派の特徴は格式の高い書院式の茶道を復興させることにあり、当時は益田鈍翁を始めとする趣味性の強い遊戯的な近代数寄屋が隆盛を極めていましたから、その風潮に対する一種のアンチテーゼみたいなものだったのでしょう。今で言うとスーパーフラットなサブカルブームに対して苦々しく思っているアカデミック陣営の先生達ということですかね。広大な敷地に規模の大きな書院群を幾棟も並べ、その周囲に池や築山を盛った庭園で構成された園内は、盆栽の様に箱庭的な三千家の家元の茶室群とは正反対であり、その気宇壮大な破格のスケールで訪れる者を圧倒します。

 

 この松殿山荘の造営が始まったのは1919年(大正8年)1月のことで宗範自ら指示に当たり、完成したのは1930年(昭和5年)のこと。着工からじつに11年もかかっています。中核となる大書院を始めとして、中書院・眺望閣・蓮斎などの書院造を中心とした各棟が建ち並び、茶室は全部で17席あります。
 まず長い砂利道を進み掘割のような苑路に入ってしばらく行くと、宗範筆「南嶽」の扁額が掲げられた大門がお目見え。この門の先に右手に大玄関、左手に中玄関が現れます。ちなみにずっと左手に家人用の小玄関もあります。


 

 この玄関群のうち、大玄関は江戸期の豪商天王寺屋五兵衛の屋敷のを移築したものですが、特に重要なのが中玄関。当主の高谷宗範は国粋主義者だった人物で、戦前の皇国史観的な修身教育を茶道に反映させ、忠臣愛国者育成を標榜していた御仁でした。この松殿山荘が格式高い書院群で構成されているのはその為なのですが、何故か当時の西洋のモダニズムにも関心があったようで、円や方形によって各部の意匠が構成される幾何学的なキュビズムの手法が導入されています。なんでもドイツへ留学した経験があるようで、当地においてカンディンスキーやモンドリアンの作風に感化されたのかもしれません。国粋主義者とモダニストが共存する矛盾がこの建築群の最大のポイントで、モダンな和洋折衷といった不思議な意匠の建造物が展開されています。
 で、この中玄関も寺社建築に多くみられる檜皮葺の屋根の上に、西洋の半円状によるヴォールト屋根が乗り、内部も天井部が電灯のシェードを円で、取り付け部に四角形、その外は円に変わり一番外は再び四角形で構成され、その奥の廊下は三角形の舟底天井と和洋の様々な様式が混入しています。天井のコントラストの強い配色も日本建築のスタイルとは思えません。

 

 

 玄関の奥に控えるのが大書院。建物は全て東向きに建てられており、この大書院を中心として南北に数珠繋ぎに連なります。外観は屋根が入母屋造りの本瓦葺による平屋建てで、内部は三十畳の大広間一間だけ。西側だけ除いて三方向に一畳分の入側が取り付くので、トータルで56畳の広さがあります。
 折り上げ格天井に栂材を用いた五間通しの長押を嵌めた格式高い書院造の広間で、その床柱には天王寺屋五兵衛居宅の大黒柱を削ったものが嵌っています。掲げられた扁額はこの茶道会発足時である宗範78歳の時のもの。

 

 

 ここでも幾何学的な方形のモチーフが散りばめられており、特に床の間の円窓や、襖戸の絵柄の紋様や引き手に見ることができます。

  

 この大書院から渡り廊下で北へ連なるのが中書院。こちらは二階建てとなりますが、二階は眺望閣と言う名の茶室となるので、中書院としては一階部だけです。屋根が寄棟造りの本瓦葺で、内部は十畳の主室に八畳の次の間、それに六畳の控えの間で構成されており、大書院同様に三方向に一畳分の入側が取り付いています。
 なんでも1925年(大正14年)9月25日に当時のスウェーデン皇太子妃が来荘しこの座敷で御休みになられたことから、「瑞鳳軒」と名付けられています。瑞とはもちろんスウェーデンの当て字である”瑞典”から。

 

 

 この中書院でもこの山荘に共通するモチーフである幾何学的な意匠は随所に見られ、まず天井は中央部を円状に高く盛り上げてヴォールト空間を見せ、その中心の電灯取り付け部を四角形にし、欄間の透かしを菱形に切りぬき、襖戸の紋様や引戸に大書院と同じ花菱の図案を入れてあります。大書院よりも狭い空間なのでよりインパクトが強く、和洋モダンな独特の雰囲気が漂っています。
 その一方で少なからず数寄屋の意匠も採用しており、主室の床の間には修学院離宮中の茶屋客殿の霞棚のコピーが造り付けられています。一番北側にある九垓廬にも同じ修学院離宮中の茶屋客殿の網干の欄干のコピーがあるので、同じ数寄屋でも上品な公家の数寄屋風書院造りの意匠は採用するということなのでしょうか?裏側の控えの間は赤松の床柱を持つ二重床の茶室になります。

 

 

 廊下にも円や四角形のモチーフが展開しており、階段の手摺にも花菱の図案が見られます。螺旋で上がる二階は眺望閣と命名された茶室で、十八畳の広間一室のみ。宝形造りの銅板葺の屋根に、網代で組まれた天井以外は何も無いとてもシンプルな空間で、四方にガラス窓が広く開けられているように、周囲の眺望を愛でながら一服頂くという趣向の立礼式の茶室です。高台にあるので確かに眺めは良く、比叡山・生駒山・二上山まで見渡せるパノラマが広がります。

  

 

 大書院から渡り廊下で南へ連なるのは楽只庵と不忘庵の二つの茶室で、こちらは草庵風の小間の茶室棟となります。苑内の17席の茶室が全て書院風というわけではなく、茶道全般に伝わる各様式を総体的に捉えようという趣旨があったようで、草庵風の小間の席も幾つか点在されています。
 書院群の周囲は眺望も考慮した視界が開けた環境ですが、こちらは草庵ということもあって閉鎖的な露地の造り。待合もありますし、燈籠・蹲踞・筧もキチンとあります。

 

  

 この二つの茶室は同じ棟の中にあり、北側が楽只庵、南側が不忘庵となります。楽只庵は大阪にあった七畳の茶室を移築したものだそうで、床柱は蔵の轆轤だとか。矩折りに貴人口が付き天井は竿縁と化粧屋根裏、畳床に下地窓が開けられた構成ですが、ここでも円窓が開けられたこの山荘共通のモチーフが見られます。
 隣の不忘庵は三畳台目の薄暗い席で、貴人口と浅い踏込床があるだけのシンプルな席。

 

  

 

 ここからさらに土間の渡り廊下が続き、東側へ突きだす様に離れ型式の蓮斎へと繋がります。円池の上に建てられた茶室で、外観は屋根が宝形造りの本瓦葺に銅板の庇が取り付く構成。平面で見ると正方形となるので、円と正方形が重なる姿となり、ここでも幾何学的なモチーフが取られています。

 

 

 内部は8畳の書院造の座敷で、庭側の北面と東面はフルオープンとなる、庭の景色が素晴らしい空間。この蓮斎はおそらく山荘内で最も特異な建物と思われ、まず淡色の色彩別による折り上げ格天井に、そのサイドの折り上げ部に網代を組み、唐物の天卓を床に置いて床柱を漆塗りとし、欄間に花菱の透かし彫りを入れた、和洋どころか中華も入ったゴッタ煮的な意匠が展開しています。特に格天井の絵画のパレットの様な配列は、やはりモンドリアンを彷彿させます。

 

 他にも申々居・好古庵・九垓廬・春秋亭・撫松庵などが点在しており、それぞれ個性的な意匠を内包した茶室群となっています。また天満宮社や聖賢堂といった祠や仏堂風の建物も庭園内にあり、何れも国粋主義者だった当主の思想が反映されている宗教施設も見られます。

 

 

 庭園内には数多くの燈籠や石橋が配置され、あまりにも広大な景色に変化を与えアクセントを持たせています。楓がとても多く晩秋の頃は苑内は紅に染まりますが、特別公開時以外はおあずけです。

 

  



 「松殿山荘」
  〒611-0002 京都府宇治市木幡南山18
  電話番号0774-31-8043
  非公開 春秋に特別公開あり