旧下木家住宅 (きゅうしもきけじゅうたく) 重要文化財



 源平合戦で知られる屋島の南麓に、四国の古民家や伝統産業施設を移築した四国民家博物館があります。通称「四国村」で知られるこの民家園は、他の施設が古民家の移築保存公開が主体なのに対してここでは古民家の移築はそれほど多くなく(6棟)、33棟の移築された物件の大半を占めるのが地場産業に関わる伝統産業施設で、和三盆で有名な砂糖のしめ小屋や和紙精製の楮(こうぞ)の蒸し小屋など、各地方独自の特色のある地域性を立体的に再現した民俗学的な施設です。村の共同施設ということで小豆島の農村歌舞伎舞台も移築されています。
 四国は吉野川に中央構造線が走るのでこれを境に地勢が大きく変わり、中央構造線の北側の讃岐平野は温暖な瀬戸内気候の平坦な土地が広がりますが、南側は西日本最高峰の石鎚山を始めとして急峻な尾根が幾つも重なり、亜寒帯の森を懐に抱く巨大な山塊を成しています。つまり大半の土地は平地の少ない傾斜地となり、制約の多い厳しい自然環境の中で知恵を絞って居住空間や産業施設を造り上げていったわけで、この四国村でもその環境を再現しようというのか園内は平地が全く無く、アップダウンが激しく揺れに揺れまくるおっかない吊橋のかずら橋もあって、気分はすっかりクロスカントリーです。高齢者と心肺機能に不安のある方は要注意。

 

 その殆ど山歩きに近い園内のルートを進んで行くと、御花畑や果樹園が広がる一画の崖下に、竹林に囲まれた茅葺の古民家が現れてきます。これは徳島県の剣山の北麓にあった旧下木家住宅で、やはり急峻な標高1000m程の急勾配の山間部に建てられてあったものを移築しており、ここでも傾斜地に石垣を積んで移築前の状態を復元しています。
 この下木家のあった美馬郡一宇町木地屋地区(現つるぎ町)はいわゆる木地師の里として知られており、山中に分け入って椀や鉢類を轆轤(ろくろ)を使って造る職人の集落だった場所です。近江の永源寺町に木地師発祥の地があり、ここでもその近江から移り住んだ一団が定住した説があるそうで、この下木家も18世紀中頃までには当地に居住していた模様です。

 

 移築前は崖を切り開いた東西に細長い敷地に、東から倉・風呂・旧主屋・納屋・新主屋・薪小屋が数珠つなぎに建てられていましたが、この四国村へ移築されたのは旧主屋のみ。この旧主屋は江戸中期の1781年(安永10年)に建造されたもので、屋根が寄棟造で茅葺の外観を持ち、大きさは桁行14.0m奥行7.9mの平面に棟高は7.95mあります。国の重要文化財指定。
 前面の南面は開放的な造りで、東南面には杉皮葺の前庇が伸ばされており、軒下から根曲がりのつなぎ梁が支えます。その庇の下には縁側があり、東南隅の便所へ続く構造。このスタイルは剣山周辺の農家でわりと多く見られるもので、剣山の西にある平家落人伝説も残る祖谷(いや)地区でも同様の古民家が幾つか見られます。

 

  

 内部は西側に「ニワ」と呼ばれる土間が広がり、東側に床上で「ナイショ」「オモテ」が1列2室で並びます。「ニワ」は作業場となり、和紙の原料の楮や三椏を蒸す為の大釜があります。
 土間も含めて何れの部屋も壁や天井板が無く屋根裏が丸見えで、構造体が剥き出しになっています。特に屋根裏の梁組が非常に個性的な造りで、梁や指物に穴を開けて上から柱を落とし込んで固定させており、「こき」「おとしこみ」と呼ばれるこの地方独特の構法。1間毎に柱をおっ立てており、「こきばしら」と呼ばれています。壁が無い為に梁組を強固にして建物を支えているようで、その梁も長大で野太いものが使われており、豪壮で力強い空間構成が広がります。

  

 

 床上は全て板敷きで、「ナイショ」には囲炉裏が切られており、ここは居間兼食堂として使われていたようです。囲炉裏の北側は「ナイショノオク」となり、こちらは寝室だとか。「オモテ」にも囲炉裏がありますがこちらは接客空間となるようで、北側に簡素な仏壇と床の間が付きます。「オモテ」の隅には竹簀子による炊事場もあるので、隠居所としても使われていたのかもしれません。
 平家落人伝説も残る秘境にあった民家なので原始的な面を強く残しており、特に居住空間の上に渡された巨木による牛梁は強烈な印象を残します。

 

 



 「四国民家博物館」
   〒761-0112 香川県高松市屋島中町91
   電話番号 087-843-3111
   開園時間 4月〜10月 AM8:30〜PM5:00
         11月〜3月 AM8:30〜PM4:30