重森三玲庭園美術館 (しげもりみれいていえんびじゅつかん)
京都大学の吉田キャンパスのお隣は、吉田神道で知られる吉田神社の境内で、京大正門のすぐ横には大きな赤鳥居もドンと構えていたりします。その鳥居から真直ぐに東へ伸ばされた玉砂利の広い参道は、吉田山の神楽岡に鎮座する神殿へと至りますが、門前にあたるこの界隈には神官の住まう社家の街並みが形成されていたようで、今でも京都市中とは思えないほど穏やかで閑静な住宅街が広がります。
その数少なくなった社家の住宅を譲り受けて自宅として住んでいたのが、昭和期の代表的な作庭家として知られる重森三玲。元々岡山の賀陽(現吉備中央町)にある吉川八幡宮の門前に生まれ、神道に傾向していた三玲にとって念願の物件だったらしく、莫大な借金をしてまでも手に入れたかった邸宅だったようで、それ以前には都合三回の転居を繰り返しましたが、ここでは終の住処として過ごしていたようです。
現在でも子孫の方が住まわれており、邸宅内の東側にあたる書院と庭園のみが「重森三玲庭園美術館」として予約制で公開されています。
ちなみに邸宅内の西側にあたる主屋は、「招喜庵」という名で文化芸術分野の施設として使用中。(非公開)
元々は鈴鹿家という社家の邸宅だったもので、1943年(昭和18年)に三玲が購入しています。当時は戦争中でもあり相当のあばら家だったらしく、壁はボロボロで天井裏には大きな蛇が主のように居ついて荒れるにまかせていたようで、家族は閉口していたようですが三玲本人はそんな風情も楽しんでいたとか。
敷地は406坪あり、江戸中期の享保年間(1716~35年)に建造された主屋と、1789年(寛政元年)に建てられた書院からなり、その後三玲が増築した茶室群から構成されます。
三玲は唯一残された社家の保存を考慮して主屋と書院を部分的に補修するだけで住んでおり、京都市中でも数少ない江戸期の民家における住宅建築が残されているというわけです。
書院は15畳の広間とその裏側に6畳の小間が並びます。特に広間は天井部に大きな特徴があり、北側の床の間前方一間前に小壁を造り、そこから床側が格天井、庭側が棹縁天井と変化を与えています。小壁から先は付書院・違い棚も備えた上段の間のような設えとなってており、近衛家の援助のもとに建造された家でもあるので、上流階級の方々を迎え入れる為の意匠なのかもしれません。
その格天井からぶら下がる和紙による照明器具は、三玲の友人でもあった彫刻家のイサム・ノグチの作品。
書院の前には三玲の手がけた庭園が広がります。
三玲と言えば「モダン枯山水」の伝道師とでも呼ぶべき存在ですから、この自邸の庭でも石を屹立させたお得意の手法で大胆でダイナミックな枯山水の庭を造り上げています。作庭家にとって完全な庭の姿というのは存在しないらしく、この庭も自邸ということもあってか度々手を入れているようで、1975年(昭和50年)に78歳で亡くなった時点での姿ということになります。他人の家では後から手を入れることは出来ませんからね。本人はやりたがっていたようですが。
白砂は大海を、苔は陸地を、石は山を表しており、その石には徳島産の青石を運んでいます。一般的には石を横に寝かせる場合が多い所、三玲は鋭角的な石を縦に突き刺すように置く点に特徴があり、元々カンディンスキーやクレー等のモダンで幾何学的な画風の作品を描く画家で、その後前衛的な華道の運動も行っていたことから、従来の手法とは全く異なる大胆な発想で、石を生け花のように地面に活けていたのかもしれません。大地はさながらキャンパスか剣山の如く。師匠を持たず独学で研究を重ねて独自の美学を築き上げていった点では、作曲家の武満徹と似通うところあります。
構成としては鈴鹿家時代から置かれていた中央の平坦な遙拝石の後に蓬莱島を造り、その周囲に方丈・瀛州(えいしゅう)・壷梁(こりょう)の三島を置いた配置で、古代中国の神仙が住むとされる蓬莱伝説における東海三神山を表現したもの。このパターンは枯山水には多く見られるもので、三玲も先に東福寺本坊で作庭しています。
それともう一つの特徴がセメントや敷石を使って、自由な曲線をグラフィックアートのように描くことで、ここでも丹波鞍馬石を使って湾曲する洲浜を表現しています。その敷石にも色彩感覚が濃厚で、この点でも抽象絵画の画家としての面が強く出ているのでしょう。この洲浜の形状は茶室の襖のデザインとも統一されています。
書院の北側には、1953年(昭和28年)に茶室の「無字庵」が増築されており、ここでも斬新な意匠で構成されたモダン茶室が展開されています。書院と無字庵は国の登録有形文化財指定。
その無字庵は残念ながら非公開なのですが、その東側には坪庭があり、無字庵の波型連子窓と、修学院離宮中茶屋客殿の網干の欄干のコピーが確認できます。内部にも大徳寺玉林院蓑庵の長苆(すさ)壁の再現や、斜めに切られた袖壁の下地窓など目を見張るユニークな意匠で統一されており、建築家としても非凡な才能を見せた三玲の代表的な作品となっています。
この無字庵の東側に、坪庭を挟んで「好刻庵」というもう一つの茶室が増築されています。1969年(昭和44年)に建造された三玲73歳と晩年の作品で、この際に無字庵との坪庭と、茶室前の書院東側の庭が整備されました。
10畳と8畳の二間からなる広間型の茶室で、公開されているのは10畳の主室のみ。二段の上段や床脇の火灯窓に清水焼の釘隠とやはりここでも手の込んだ色々な仕掛けが組み込まれているのですが、何といっても一番に目を引くのは襖に描かれた波型の模様のデザイン。庭の洲浜を表した敷石と共通したモチーフですが、ここではさらに青と銀による市松模様が織り込まれており、桂離宮松琴亭を連想させる大胆な意匠です。
伝統にとらわれずに自由な発想で次々と精力的な仕事を成した三玲ですが、その一方で既存の日本庭園や茶室の研究家としても知られており、伝統を一旦消化しそこからさらに飛躍して新しい境地を切り開いていった革命家でもあったわけで、その実験場でもありホームグランドがこの自邸だったということなのでしょう。
「重森三玲庭園美術館」
〒606-8312 京都府京都市左京区吉田上大路町34
電話番号 075-761-8776
完全予約制