千本釈迦堂 (せんぼんしゃかどう) 国宝
西陣の西のはずれ、北野天満宮に程近い住宅街の中に千本釈迦堂があります。大報恩寺という正式名称がある真言宗の寺院ですが、昔から通称で広く知られており、冬の大根炊きや節分会で親しまれている至極庶民的なお寺です。門前は西陣らしく織屋建の町家も見られ、北野天満宮へ向かう参道にはお茶屋が軒を並べた京都最古の花街である上七軒もあり、情緒ある静かな街並みが残る場所でもあります。郵便局も景観に合わせてか町家風の外観。
この千本釈迦堂は、鎌倉初期の1221年(承久3年)に求法義空上人が釈迦念仏の道場として小堂を構えたのが始まりで、嵯峨清涼寺と並んで京における釈迦信仰の中心地だった寺院です。今では西陣の庶民的な街並みに紛れていますが、創建当時は市中の町外れだった場所で、京の三大風葬地だった蓮台野に隣接しており、小野篁ゆかりの千本閻魔堂も御近所。嵯峨釈迦堂も風葬地化野(あだしの)の近くにあり、冥府への旅立ちに釈迦如来の御慈悲にでも預かろうということなのでしょうか?
その昔は寺域が千本通り沿いにまで広がっていたようですが、今では住宅地に囲まれて狭くなった敷地に本堂と霊宝殿が目立つぐらいです。でもこの本堂、只者では無くて京都市中では最古の建造物となり、鎌倉初期を代表する仏堂として国宝にも指定されています。
建立が1227年(安貞元年)と創建当時のもので、近郊一体を焼き尽くした応仁の乱や享保期の西陣焼けにも奇跡的に罹災しなかったお堂です。凄い強運。
外観は屋根が入母屋造の檜皮葺で、大きさは桁行5間奥行6間の木造平屋建て。正面中央に1間の向拝が取り付きます。緩やかなスロープの美しい檜皮葺による屋根や、柱間に蔀戸を並べたその姿は王朝風の寝殿造りを思わせ、細部でも千本を数える木割の細い垂木や、出組の小さな斗栱に美しいシルエットの蟇股など純和様の古風な佇まいを見せており、中世の5間堂としては最大の規模でありながら全体としてはとても繊細で優美な印象を持つ建物です。まだ大仏様や禅宗様が導入されていないので意匠としてはとてもシンプルであり、このあとに続く明通寺本堂や長弓寺本堂のように装飾が増えて大仏様が入る新和様とは趣が異なることから、古代と中世との過渡期における橋渡し的な様式の仏堂ということなのでしょう。
内部は密教寺院らしく内陣と外陣を菱格子を結界として前後に分けており、その内陣も中央に方1間の四天柱を建てて内々陣とし、左右に1間づつの脇陣と背部に1間の後陣を区切った構成で、内々陣以外は壁によって厳密に仕切られます。平安期に多く見られる阿弥陀堂形式の小規模の仏堂に、三重構造に順次包みこむように大型化したもので、ここでも時代の変革期における過渡期的な構造を見ることができます。
また前方2間による広い畳敷きの外陣には、天井に繋虹梁を渡して柱が省略されており、このように内陣・外陣を明確に分割する仏堂としては最も古く、虹梁による柱の省略も最古の例。長い歴史を物語るのでしょう年季の入った太い柱には刀や槍の傷跡が残り、外観の優美さとは異なり重厚で堅牢な空間を持ち、なにより四天柱に仏画が彩色されたほの暗い内々陣はとても神秘的です。
この寺は仏像の宝庫で、本尊の釈迦如来坐像は秘仏で厨子の中ですが、快慶作の釈迦十代弟子像や六観音像(いずれも国重文)はいつでも霊宝殿で拝観できます。
ところでこの本堂を建てた際に有名なエピソードがあり、なんでも棟梁が致命的な施工ミスをしてしまい、妻おかめの的確なアドバイスで無事竣工したのは良かったのですが、女性の提言で完成したとあっては夫の恥と上棟前日に自殺したという話。本堂前には供養塚があり、本堂内の脇陣におかめの人形やらお面やら陶器などが展示されています。本堂が不思議と焼けないのはおかめの執念なのでしょうか?今でもゼネコンや建設業者のお参りが絶えないお寺です。
「大報恩寺」
〒602-8319 京都府京都市上京区五辻通七本松東入ル溝前町1305
電話番号 075-461-5973
拝観時間 AM9:00~PM5:00 年中無休