蓮華院・金毛窟 (れんげいん・きんもうくつ)
横浜本牧の入り組んだ地形に開かれた三渓園は、その複雑な地形に合わせて仏閣・民家・茶室等の多種多様な建物が点在する和風建築の総合博物館。特に茶室や数寄屋風建築に名品が多いことでも知られていますが、その設置環境も見所の一つで、例えば池に浮かび上がる臨春閣や清流の畔に佇む聴秋閣など、周囲に溶け込むような絵画的な風景が見事。原三渓のランドスケープデザインにおける豊かなイマジネーションの賜物なのですが、移築された古建築だけではなく三渓自身も茶室を2棟ほど手掛けており、内苑で一番南端の海岸門に近い竹林の中に、三渓が手掛けた「蓮華院」という茶室がひっそりと隠れるように佇んでいます。
蓮華院は1917年(大正6年)に建造された平屋建ての茶室で、外観は屋根が切妻造りの鉄板葺に妻の北側へ柿葺の切妻が伸びた構成となり、横長の長方形から北西の隅を一部欠いた平面となります。内部は北側から二畳中板の小間・六畳の座敷・土間が直列に並び、背部に水屋や勝手が並ぶ構成。このうち一番手前にある小間が中々ユニークな内容で、まず床や中柱が無く、亭主側の壁に風炉先窓が一つ開いているだけの酷くシンプルな構成となっており、おまけに天井はアンペラが張られてそれを曲がりの強い細丸太で支え、壁にも節付きの皮付き柱を見せる素朴ながら野趣溢れる意匠。近代数寄屋の代表格だった三渓ならではの独自の美学に基づく大胆なアイデアを取り入れて、古典的な手法を踏襲せずに独創的な茶室を構築したということなのでしょう。
隣の六畳の座敷は薄暗い小間とは一転した明るく端正な造りで、竿縁天井に琵琶床や天袋・地袋を備え、床柱には辛夷やゴヒラを使い床框に透漆塗が施された数寄屋風書院造の部屋。琵琶床に東大寺三月堂の不空羂索観音菩薩が手に持っていた蓮華を置いて飾っておいたことから、蓮華院と命名された模様です。この場所に待合は無いので寄付としても機能していたのでしょう。
さらにその隣の土間は二間四方の中央に太い木柱をおっ建てて葭張りの天井を支え、柱の横に重厚な石炉を置いた、これまたかなりユニークな内容。この柱は宇治平等院鳳凰堂の古材を転用したものだそうで、石炉も塔の石造露盤だったものとか。明治期の廃仏毀釈で寺院の古材が多く出回ったことから、近代数寄屋の茶人達がよく茶室等の建築物に転用するケースが多かったようで、この茶室でも壁の格子窓にも鳳凰堂の古材が使われているようです。最も鳳凰堂の修復事業で出たものなのでしょうが。小間と同様に三渓独特の素朴でありながら重厚で野趣に感じられる空間が出来上がっています。
もう一つの茶室は内苑の最も奥まった谷合に、月華殿と天授院に挟まれるように建つ「金毛窟」。持仏堂である天授院があるこの一画は三渓にとって重要な場所だったらしく、周囲は鬱蒼とした深い森に包まれたより静謐で黙想的な環境となっており、この茶室も遊び心が感じられる蓮華院とは異なり無駄なものを省いたスーパーシンプルな造りです。1918年(大正7年)に建造された小さな茶室で、外観は屋根が切妻造りの鉄板葺となり、南隅に小さな躙口が開けられています。月華殿に付属していた九窓亭(春草蘆)は本来はこの金毛窟の位置にあるはずのもので、園内へセットで移築した際に切り離されて別の位置に置かれることになり、その跡の場所にこの茶室を建てて渡り廊下で月華殿と連絡させたというのが現状の姿なのですが、それだけこの金毛窟という茶室をこの場所に造りたかったという三渓の思いが強かったということなのでしょう。
でその内部なのですが、一畳台目の隅炉という極限の狭さの構成。この間取りは武者小路千家の家元にある官休庵に似ており(官休庵は一畳台目半板)、床の位置や窓の配置も似ています。床柱に大徳寺山門の金毛窟の古材を転用しており、茶室の命名もそこから。この金毛窟という山門は曰くありげな建物で、千利休が秀吉に切腹を命じられたきっかけとなった由来を持っており、それと利休の子孫である武者小路千家の茶室に似せた建物に転用するというのは、三渓にいったいどのような考えがあったのでしょうか?ほの暗い侘びた境地に浸れる茶室です。
「三渓園」
〒231-0824 神奈川県横浜市中区本牧三之谷58-1
電話番号 045-621-0364・045-621-0365
FAX番号 045-621-6343
開園時間 AM9:00〜PM5:00 (入園はPM4:30まで)
休園日 12月29・30・31日