実篤公園 (さねあつこうえん)
仙川の駅を下り、昔ながらの庶民的な商店街を抜けて、広大な桐朋学園の裏手を抜けると、武者小路実篤の邸宅が残る実篤公園の門前に出ます。このあたりは道路が異様に入り組んだ形状をなしていて、車一台がようやくすり抜けられる細い小道が無法図に伸ばされてまるで迷路状態。おそらく田圃や畑の畦道をそのまま舗装化したらしく、さらに野川の支流である仙川の崖上にあたることから傾斜地でもあり、整地が困難だったことがその原因のようです。まあそのおかげでマンションや宅地付き分譲住宅などが建たない、昔ながらの閑静で緑豊かな住宅街がそのまま残されているわけですが。この実篤公園は、武者小路実篤の自邸を遺族が調布市に寄贈したもので、その敷地は千五百坪もあり、さすが白樺派は御坊ちゃまが多いのよねというところですが、仙川側から門を入ってタラタラ坂を下りると邸宅が見えてきます。
実篤がこの仙川へ引っ越してきたのは1955年(昭和30年)70歳の時。それまでは吉祥寺に居を構えていましたが、娘達も嫁いだし悠々自適を決め込むのにどこか良い場所はないかと思案していて、条件として水辺で自然が豊かな場所を所望していたようで、わりと近所だったこの仙川に好物件が見つかり、早速GETした模様です。たしかに武蔵野の雑木林に囲まれた湧水池のあるこの土地は南斜面でもあるので日当りが良く、高齢者にはうってつけ。
建物は木造平屋建てで、建坪は約30坪。設計はル・コルビジェのお弟子さんだった坂倉準三氏で、モダンな和風建築といったところです。東西に雁行型に4部屋並ぶ構成で、何れの部屋もガラス窓を大きく取った明るく暖かい空間が並ぶまさしく御老公向け。一番東にある居間の南側にはサンルームもあり、その隣には庭を眺めながらお風呂も入れるという、至れり尽くせりの配置構成。それと建物の東側と西側とで生活空間と接客空間とが巧妙に分断されていて、トイレも二つ並んでいながら客用と家人用とが完全に分けられています。その接客空間には応接室と8畳の客室、それに仕事部屋があり、特に8畳の客室は外縁が取り巻き付書院も備えた端正な座敷なのですが、ここも天井にガラス窓が入った明るい空間になっていて、さらに丸い下地窓が幾つか開いており、これは桂離宮の笑意軒と同じ趣向で、このあたりがモダニストの坂倉準三ならではの味わいなのでしょうか?実篤自身は茶道は嗜まかったようですが、夫人の趣味とかで炉も切られており、隣にはキチンと水屋もあります。
応接室を挟んで続く10畳の仕事部屋は、文筆業としての書斎というよりは、あの茄子とか南瓜の絵で知られる画家としての作業場といったところ。午前中は小さな経机で原稿を認め、午後は大きな机で書画を書いていたようで、昔は何処の家の玄関にも吊るしてあった「仲良きことは美しき哉」に南瓜だの胡瓜だの茄子等の絵をここで描いていたわけです。やはり窓の大きな明るく開放的な部屋で、窓の外には楓や竹林が広がる高級旅館の離れみたいな空間。
この自邸は敷地が二つに分断されていて、園内の丁度ど真ん中を公道が横切っています。元々農道だったもので、実篤もそれを承知で購入し、邸宅のある仙川側の傾斜地で普段は過ごして、下の平地の方で散歩を楽しむといった風情だった模様。園内は菖蒲園や竹林もあり、桜や楓に紫式部・侘助椿・欅・榛・樟・青桐と様々な種類の樹木が植わり、特に春の桜と秋の紅葉の時期は中々見応えがあります。大小合わせて3つの池があり、池に浮かぶ東屋や太鼓橋もあって、スケールはコンパクトですがモネのジベルニーの邸宅を彷彿とさせてもくれます。武蔵野の面影を色濃く残す園内と、パリ郊外の風景には共通の田園性があるのかもしれません。そういえば白樺派は印象派の絵画がお気に入りでしたね。実篤はこの自邸で90歳で亡くなるまで暮らし、夫人と二人で静かに晩年を過ごしたようです。これだけ恵まれた環境で人生が過ごせれば、文や絵が楽天的な作風になるのも納得。
この上下に分かれた園内は地下道で結ばれているのですが、さらにその奥に地下道で記念館とも繋がります。ここは実篤の自邸では無かった場所なのですが、実篤没後に市に寄贈された後に記念館建設の為に用地として取得された場所で、ここからだと仙川の駅は遠く、つつじヶ丘駅の方が近くて判り易いです。
「実篤公園」
〒182-0003 東京都調布市若葉町1-8-30
電話番号 03-3326-0648
入園時間 AM9:00〜PM5:00
実篤邸は毎週土日祝日 AM11:00〜PM3:00 雨天中止
休園日 月曜日 年末年始