西国寺 (さいこくじ) 重要文化財
尾道の地形図を見ると、瀬戸内海に向かって三方向から山並が迫り、それぞれの山には尾道を代表する名刹が名付けられています。一番東の山には浄土寺山 西の山には千光寺山、そして北にあたる中央の山には西国寺山と命名されており、いずれもその由来となっている寺院が山懐に抱かれています。ちなみにどの寺院も宗派は山好きの真言密教。浄土寺は国道二号線沿いの港に近い庶民的な雰囲気が、千光寺はロープウェイで登るほどの急峻な崖ッ縁にある修験道場のような趣が、そして西国寺は市内で最も奥まった位置にある森閑とした環境にあり、山中に開かれた密教寺院らしい香りが漂います。この西国寺は尾道市内の寺院の中でも最も規模が大きく山域も広く、その境内の一番奥からは尾道市街が一望出来、さらに瀬戸内の島々も眺望可の中々のビューポイント。
西国寺は8世紀の天平期に行基によって開山された古刹で、平安後期の治暦年間に本堂や五重塔を焼失してほどなく再建されましたがこれも鎌倉期に再び焼失し、現在見る伽藍は南北朝以降に順次再興されたもの。その伽藍は山の斜面に沿うように平面的でなく段々状に構成されていて、参道から最奥の三重塔までは幾度もの石段の昇降を余儀なくされます。緩やかな上り坂の参道を進むと正面に立ちはだかるのが堂々たる重厚な仁王門で、江戸初期の1648年(慶安元年)に建造された県内最古の楼門。信者により奉納された2mを越す大ワラジがシンボルマークです。
この仁王門を潜るとまず最初の試練である100段を越す急傾斜の石段が待ち構えています。心臓の弱いお年寄には情け容赦のないこの教練を終えると、だだっ広い敷地の中央に丹塗りの美しい金堂が真正面にお出迎え。この金堂は南北朝末期の1386年(至徳3年)に当時の守護大名山名氏によって再建されたもので、大きさは平面で5間四方の正方形となり、屋根が入母家造りの本瓦葺。国の重要文化財に指定されています。
南北朝期の仏堂は大抵は禅宗様か折衷様でデザインされることが多く、また近所の浄土寺本堂や隣町の福山にある明王院本堂が、共に鎌倉後期の折衷様による代表的な遺構である事から同様のスタイルを帯びても不思議ではないのですが、この金堂は古代的なデザインである和様を基本として設計されています。正面・側面の壁面は全て蔀戸を嵌めて縁には高欄を回し、装飾を極力配したそのシンプルな姿は、鎌倉期に建造された純和様建築である神戸の太山寺を相似でスモールダウンしたよう。妻部に禅宗様の二重虹梁大幣束が入るので純然たる和様建築ではないのですが、鎌倉期以降の仏堂にはあまり見られない王朝風のイメージも感じられます。浄土寺の阿弥陀堂も南北朝期の建造でやはり和様建築であったりするので、当地方においては折衷様式が上手い具合に消化されていったのかもしれません。内部は密教寺院らしく内陣・外陣を分け、それぞれに格天井を張った端正な空間なのですが非公開。
この金堂横から奥へと石段を登ると今度は庫裏や持仏堂に大師堂と諸堂が並び、さらに再び石段を登り山深く分け入って行くと終点に三重塔が待っています。室町前期の1429年(永享元年)に将軍足利義教の寄進により建立された三間三重の塔婆で屋根が本瓦葺。これも金堂同様に国の重要文化財に指定されています。
この三重塔もこの時期には珍しく和様で設計されており、逓減率が大きくで古代的な風貌を持つ塔。金堂にも言えますが折衷様がある程度行き渡った後に、南北朝末期から室町前期にかけて反動的に復古主義が盛り上がったのかもしれません。今は横浜の三渓園に移築されている京都加茂にあった旧燈明寺三重塔も、同時期に建立されて和様建築ですし。この三重塔は石製の基壇に直接建てられており、また床や回縁も無い装飾性の弱い意匠で、その点でも古風な造り。山内で最も高い場所にあるので、人影が少なく静寂が保たれており、眺望が良いので人に会いたくない時はここでボーッと過ごすのが良いでしょう。