麟閣 (りんかく) 福島県指定文化財
千利休には4人の息子があり、そのうち成人して父の茶道を継承したのは2人いて、今の三千家に繋がるのが千少庵。この千少庵は実は利休の実子ではなく、利休の再婚相手の連れ子で、利休の娘と結婚して産まれたのが表千家・裏千家の開祖である宗旦となります(武者小路家は宗旦の結婚相手の連れ子)。少庵も父利休と共に秀吉の茶頭として仕えていましたが、利休が秀吉の怒りに触れて自刃し、少庵も蟄居を命じられ、利休の高弟だった会津藩主の蒲生氏郷が預かることとなり、会津に約3年間隠棲しています。その後は氏郷や家康の取りなしにより赦されて京に帰り、小川通りに居宅を構え、これが今の三千家の始まりとなります。
その会津に滞在していた間に氏郷の為に茶室をこしらえており、鶴ヶ城本丸大書院の横に「麟閣」という茶室を造っています。
但しよく知られているように明治初めの会津戦争により鶴ヶ城は壊され、同時にこの麟閣も民間に払い下げられることになり、1872年(明治5年)に城下の薬種商森川家の邸内に移築されていました。が、バブル真っ盛りの1989年(平成2年)に観光施設として元の場所に移築することになり、再整備されて公開されているという次第です。
まず園内に入り順路を進むと、寄付・梅見門・腰掛・蹲踞が飛び石沿いに続き麟閣の前に至りますが、実際にこの露地が少庵によってこのように構成されていたかはかなり疑問。
麟閣は入母屋造りの茅葺屋根に土壁の真壁造りによる草庵風の外観で、三畳台目の小間と六畳の鎖の間と水屋による平面構成。小間の妻側に「麟閣」の扁額がありますが、これは表千家の家元の手によるもの。ちなみに正門上にも同様に扁額があり、こちらは裏千家の家元の手により、脇門上には武者小路家の家元の手によるものが掲げられています。つまり三千家の各家元が祖先の手がけたとされる茶室に参画しているわけですが、利休の子孫でも特にこの少庵の流れを汲むのが今の三千家なので、移築復元の事業に関わったのでしょう。福島県の重要文化財指定。
因みに小間が席名「麟閣」で、鎖の間は席名「蒲鶴亭」となります。この小間の「麟閣」は南西隅に深い土間庇に躙口を切り、その上に真竹の下地窓を開け、その横に刀掛けを配し、その真下に塵穴を掘る正統的なもの。この構成は古田織部の燕庵と同形式で、実は内部も燕庵と同型になっており、利休の息子が織部のコピーを造るというとても不思議な話。窓の多い茶室で全部で9つもあります。
三畳台目を基本に、台目畳の点前座と反対側に一畳の相伴席を付けた平面を持ち、点前に色紙窓を開けて雲雀棚を付け、下座床に墨蹟窓を開け、下座と相伴席は掛込天井に他は蒲の平天井とする、燕庵と全く同じ形式。ただ点前座が下座側にずらして畳の軸線と合わせており、その分だけ茶道口が床前に角ばって出た点と、床に向き合う下座の壁面が下地窓でなく連子窓が開き、平天井の竿縁が床指しになっている点が燕庵との違いです。床柱には少庵が削ったとされる赤松のナグリのものが嵌められています。
おそらくこの床柱以外は当初のものは失われていて、燕庵が形成されるのは慶長年間(1596年〜1615年)なので少庵が会津にいた時期にはまだ完成しておらず、後年に残された部材をこの燕庵形式の茶室に組み込んだのが実情なのでは?森川家に移築された際には損傷甚だしかったようなので、当初の姿は殆ど留めていないと思われます。
背部にある鎖の間である蒲鶴亭は六畳の書院造の座敷で、相伴席への入口も設けられています。ここでは給仕口にもなるので、火灯口の形状で開けられています。この鎖の間も織部の得意としていた手法なので、利休風というよりはやはり織部風の茶室と言えるでしょう。
「麟閣」
〒965-0873 福島県会津若松市追手町1-1 鶴ケ城内
電話番号 0242-27-4005 会津若松市観光公社
開館時間 AM8:30〜PM5:00
休館日 無休