近江神宮 (おうみじんぐう) 登録有形文化財
琵琶湖の畔をのたくた行ったり来たりする京阪電鉄石坂線、沿線には古社名刹が多く、東海道の宿場町だった大津の古い街並みの中をすり抜けていく全線各駅停車のローカル線で、車窓からは広々とした湖の風景も見渡せて、どことなく江ノ電に似た雰囲気も感じられます。
喧騒や緊張とは無縁なのんきな路線ということなのかラッピング電車が多く走っており、それもマンガ・アニメ方面が充実。なんでも沿線の石山界隈は「中二病でも恋がしたい」の舞台のモデルになっているとかで、眼帯姿のキャラが描かれた車体が終日運行しています。もう一つは「ちはやふる」で、こちらも沿線の近江神宮がモデルになっていることから。その近江神宮の鳥居前には、「ちはやふる」の看板も出展中です。
何故にマンガの聖地となっているのかと言うと、かるた所縁の神社の由緒がその理由。天智天皇を祀るこのお社は、百人一首の第一番に選ばれた天智天皇に因んで毎年正月になると、かるた名人位・クイーン位戦が開催されるその筋の聖地で、かるたを題材とする「ちはやふる」では高校野球の甲子園的な存在として登場します。
で、この近江神宮は創建が天智天皇の時代まで遡るほど古いかというとさにあらず、昭和初期の1940年(昭和15年)に皇紀2600年を記念して造営された新しい神社で、橿原神宮・平安神宮・明治神宮・吉野神宮等と共に明治期以降の皇国思想強化に基づいて次々に創建された宗教施設の一つです。当時は戦前の軍事政権下で太平洋戦争勃発前年とナショナリズムが最高潮に達していた頃ですからね、”神の国”と言う幻想を生み出す大規模な装置が必要だったのでしょう。比叡山の麓に広がる原生林を切り開いた六万坪にも及ぶ広大な敷地に、楼門や拝殿・本殿といった巨大建築物が整然が建ち並び、平安神宮と同様の復古主義による王朝風の佇まいを見せています。
この近代建築である明治期以降の神社建築で中心となったのが内務省神社局。現在の神社本庁にあたるセクションが当時は国が直接統括していたわけで、このような大規模な神社の造営を国家プロジェクトとして推進していきました。その中心人物として活躍したのが筆頭技官の角南隆で、先に完成した吉野神宮がその代表的な作品なのですがこの近江神宮の設計にも携わっており、内務省神社局としての最後の集大成的な物件として造営されたものです。
吉野神宮は明治期に創建された橿原神宮に近い構成を持ちますが、この近江神宮は平面の配置構成は先の二つの神宮と似るものの、山の麓の傾斜地ということもあってより上昇性が強くなり、鳥居・楼門・拝殿・本殿がいずれも長い石段・階段の上に置かれています。次の建物へ向かって石段を上がって到達し、そこで始めて眼前に広がる風景を劇的に見せるという巧みな計算があるのでしょう。高み=神聖性を強く意識させた空間が見られます。
拝殿と本殿は複雑な構成を持っており、拝殿の内拝殿・外拝殿を回廊でロ形に結んだ外院と、渡廊の奥に連なる祝詞舎・本殿による内院とに分かれ、外院と内院が内拝殿から延ばされた登廊で結ばれています。この特異な構造は”近江造り”と呼ばれ、近代の橿原神宮・吉野神宮の平面構成に近世の霧島神宮の手法が採用された構造で、それまでの様々な神社建築の意匠工法を合体させた総決算的な物件ということなのでしょう。
一般参拝者用の外拝殿は、屋根が入母屋造りの銅板葺で、大きさは桁行五間に奥行三間。正面に唐破風屋根が付いた割拝殿となっており、内部も吹き放しで小組格天井・舟底天井・蛇腹天井と天井も多種に分かれ、架構上にも優美な蟇股が見られます。
外拝殿の両端から回廊が前面へと延ばされ、奥に位置する内拝殿へと至ります。内拝殿は神職用で、屋根が入母屋造りの銅板葺に大きさは桁行五間に奥行三間と外拝殿と同じですが、こちらは唐破風屋根は付かず割拝殿にもなっていません。奥に細い登廊があってその先に本殿がありますが、一般参拝者は回廊前までしか入れませんので、遠くに遙拝するだけです。本殿は三間社流造の檜皮葺と伝統的な物件で、これも歴史性も見据えた神社建築の集大成の一つと言うことなのでしょう。
本殿・内拝殿・外拝殿・登廊等が国登録有形文化財指定。
「近江神宮」
〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1-1
電話番号 077-522-3725
参拝時間 AM6:00〜PM6:00