大河内山荘 (おおこうちさんそう) 登録有形文化財
その昔、戦前のチャンバラ映画全盛期の時代には、6大時代劇スターというのがありました。阪東妻三郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門・嵐寛十郎・長谷川一夫、それに大河内伝次郎といった面々がスクリーンで大活躍し、その本拠地だった京都はさながら本場ハリウッドの如く映画産業で華やかな賑わいを見せていました。そんな空前の活況を見せていた映画界もいつしか斜陽産業と朽ち果て、ましてや時代劇となるとそのダメージは甚大となり、東洋一のスケールを誇った太秦の大映の撮影所も売却されて痕跡さえも留めない始末。スター達の名も遥かノスタルジーの霧の彼方です。北大路にあった市川右太衛門の邸宅や、嵯峨野の阪東妻三郎・片岡千恵蔵の邸宅も今はありませんが、只一つ大河内伝次郎の別荘だけは残されており、往時の映画界の隆盛振りを伺える証人ともいえる存在です。嵯峨の巨刹である天龍寺の裏山にあたる場所にその別荘は構えられており、天龍寺北門前の竹林の小径を西へ進むと、その正面に門が見えてきます。
伝次郎がこの土地に別荘を構えたのは1931年(昭和6年)の34歳の時。当時は映画俳優として「丹下左膳」シリーズ等で人気を極めていた頃で、その莫大なギャラをこの山荘に思う存分注ぎ込んで造営にあたっており、百人一首で知られる小倉山の麓約6千坪もの広大な敷地を購入して、亡くなるまでの約30年もの間に今に見る姿を形成しました。その概要は豪快勇荘なキャラクターで鳴らした大スターらしく規格外ともいうべき法外で破格なスケールを誇り、バックに小倉山と嵐山を従えた借景をとり、見渡せば遥か比叡山の山容も拝む京都市内を一望する雄大なもの。本当に昔の映画スターってハリウッドスター並に大金持ちだったのね。
この広い園内に伝次郎は幾つかの建造物を点在して建てており、そのポイントを巡りながら庭園を回遊して歩く構成で、木立を抜け展望台に上がるので半分山登りに近い行程です。正門を入って最初に御目見えするのは中門で、そこから主屋である「大乗閣」の屋根が見えています。この中門は檜皮葺屋根の一風変ったもので数寄屋風の造りとなり、この奥の大乗閣と一体化した意匠。ここで庭園との結界の意味があるのでしょう。
その大乗閣は芝地に囲まれた展望の良い開けた台地状の上に建てられてあります。園内では先に「滴水庵」という草庵風の茶室が建てられており、その後10年程経過した1941年(昭和16年)にこの大乗閣が建造されました。それまでは当時のアッパークラスのステイタスでもあった茶道の施設として機能していた別荘だったのですが、太平洋戦争直前の最もナショナリズムが強まった時期に、古代から近代までの日本住宅建築の様式を集大成した建物を造りたいと伝次郎が希望したとかで、数寄屋建築の名工だった笛吹嘉一郎に依頼して建造されたものです。当時は帝冠様式が流行し、ブルーノ・タウトの伊勢神宮への評価など反動的でファシズム的な時代性もあるのでしょう。そのせいか外観は神道系の新興宗教の施設みたいですが・・・。
木造平屋建てで鉤状の平面を持つこの建物は、施主の依頼による様々な住宅建築の様式により、寝殿・書院・茶室・民家がパズルの様に組み合わさった不思議な構成を持っています。日本建築はまず屋根に大きな特徴があるので当然屋根の構成も檜皮葺・柿葺・茅葺とそれぞれ内部の意匠に合わせて分けられており、尚且つ形状も入母屋造り・寄棟造り・切妻と変えてあるので非常に複雑。特に寝殿と書院は同じ檜皮葺でも寝殿は入母屋で書院が寄棟となる面白い外観です。また玄関は檜皮葺の屋根に柿葺の庇が付きますが、左手に切妻屋根に柿葺の庇が付く茶室があるので、さらに複雑な外観です。
内部で中心となるのは書院で玄関の右手にあたる場所。花頭窓を開け格子天井に彩色画を施した上段の間を設けた格調高い意匠の部屋で、杉の絞り丸太や磨丸太等の良材を多く用いており、外縁にも修学院離宮中茶屋の網干の欄干を採用するなど、凝った細工が見所です。外観は京都御所の茶室聴雪にも似てもいます。玄関左手の茶室は、犬山の国宝茶室の如庵を模写したもので、土間の構成もそっくり復元されています。いわゆる数寄屋建築の名品の意匠が散りばめられているので、このあたり数寄屋大工の笛吹嘉一郎の腕の見せ所なのかもしれません。
書院のさらに東には寝殿があり、ここは板敷の簡素な意匠の部屋。王朝の貴族住宅の一つである泉殿を模したようなのですが、春日造りの社殿にも似ています。この他に茅葺屋根に土間を付属した「栗の間」と呼ばれる民家風の部屋もあるのですが、残念ながら内部は全て非公開。
この大乗閣から園路を進むと園内一番南側に持仏堂が現れてきます。伝次郎は若かりし頃に関東大震災で罹災し、その無常感から熱心な仏教信者となったらしく、別荘内でもこの持仏堂が一番最初に建造されました。1931年(昭和6年)に建立された梁間1間奥行2間の小規模な仏堂ですが、高欄・蟇股・頭貫・三斗組と充実した意匠を施されており、技巧を凝らした精緻な造りの建物でもあります。大乗閣の寝殿にも似ています。
ここから北へ木立の中へ進むと茶室の滴水庵が見えてきます。このあたりは特に苔が美しく、ほの暗い木立に囲まれてひっそりとした草庵風の茶室が佇んでおり、開放的な場所に造られた大乗閣とは対照的。この滴水庵と持仏堂が最初に建造されており、当初は瞑想する場所としてこの地が選ばれていたようで、このすぐ上に展望台がありそこから嵐峡を挟んで嵐山と大悲閣千光寺がよく望めることから、宗教的な意味もあって深閑とした環境にしたのでしょう。1931年(昭和6年)に建造されており、まだこの頃は大乗閣建造の頃のようにナショナリズムがそれほど強くは無かった時期でしょうし。
滴水庵は2つの茶室を水屋で繋いだ平面構成で、8畳の広間と4畳半台目の小間によるもの。広間は東と南に大きく戸を開いているので比較的明るく、また簾張の舟底天井に琵琶床の竹を多く用いた軽快な意匠。小間は広間に比べるとやや薄暗く、造りも広間に比べると質実で力強い意匠です。
茶室ですので当然露地もあります。梅見門も蹲踞も灯篭もキチンとあります。苔むした林床に良く映えてことのほか美しく、特に新緑と紅葉の頃がお薦め。
園内は回遊式でアップダウンの多い庭園ですが、随所に灯籠や石塔に井戸等で景観にアクセントがあるので、思ったほど疲れません。山登りの後は最中と抹茶の接待が待ち受けています。
大河内伝次郎は同じチャンバラ映画のスターである、阪東妻三郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門・嵐寛十郎・長谷川一夫といった歌舞伎出身のスター達とは異なる新国劇の出身なので、華やかさには欠けるもののリアリズムの強い重厚な演技で鳴らした大スターでした。特に映画俳優転進後にほどなく伊藤大輔監督と出合うことにより、このコンビによる骨太でリアルな時代劇を多作して高く評価され、「忠治旅日記・信州血笑篇」は戦前に製作された日本映画としては最高峰とも呼ばれています。また山中貞雄や内田吐夢といった巨匠とも仕事をこなし、戦後は黒沢明監督の「虎の尾を踏む男たち」「わが青春に悔いなし」でも重厚な演技を見せて活躍し、1962(昭和37年)に64歳で没するまでスクリーンで活躍し続けました。園内に記念館があり、写真や経歴がパネルで詳しく紹介されています。
「大河内山荘」
〒616-8394 京都府京都市右京区嵯峨小倉山田淵山町8
電話番号 075-872-2233
FAX番号 075-872-2253
開園時間 AM9:00〜PM5:00
休園日 年中無休