西川家住宅 (にしかわけじゅうたく) 重要文化財
あきんどの国近江の八幡市は、都市が発展していく過程での多様性が痕跡として良く残る町で、中世の肥沃な農耕地域から城下町へと変貌し、さらに商人町から近代のヴォーリズ建築に見られる洋風レトロへと変化していく、各時代における風景や街並がそれぞれが溶け合い渾然となって存在する面白い場所です。おそらく東海道線の開通時に市街地を避けて走り、駅周辺に行政機関や商業地域が新たに出来たことにより、旧市街と新市街に分裂したことが大きな理由と思われ、中途半端に田舎の為に旧市街の再開発が進まずそのままボロい街並がしっくり残り、何が幸いするか折からのレトロブームに乗っかって旧市街の魅力が喧伝され、観光客が多数訪れるスポットに大変身したという、町興しに躍起になっている地方自治体には垂涎の町。町の魅力が一様でなく多面体なので、小舟に乗って水郷めぐりをしたり、琵琶湖畔で湖水浴をしたり、洒落たヴォーリズ建築のカフェでまどろんだり、風情ある城下町の街並をプラプラしたりと、色々と楽しみ方が選べるのが強みなのでしょう。
商人町として最も街並が良く残るのが新町通りと永原町通りで、それぞれ江戸期にまで遡ることが出来る建造物が7割程も占める稀有な地域。特に新町2丁目界隈の京街道とクロスする辺りが素晴らしく、黒塀と見越しの松に格子造りの町屋が立ち並ぶ、江戸時代にタイムスリップしたような空間です。この一角に市内きっての豪商だった西川家住宅があり、市の資料館として公開されています。
西川家は越前朝倉氏の家臣の出で、信長により朝倉氏滅亡後はドロップアウトし、天正年間に八幡市が城下町として建設時期中に移り住み、「大文字屋」として商売を始めたのがその謂れ。葦の多い土地柄から蚊帳や畳表を生業として成功を収め、近江を代表する豪商として名を馳せましたが、昭和初期に廃絶し市に寄贈されたのが今の建物で、主屋と3階建ての土蔵による構成。主屋は1706年(宝永3年)の建造で、土蔵はそれ以前の天和年間(1681年〜1683年)に建造されたもので、それぞれ国の重要文化財に指定されています。主屋は外観は木造2階建てで屋根が切妻造りの桟瓦葺。前面は今はガラス窓が嵌められていますが、嘗ては板戸が入っていて、中が真っ暗になるのでガラスと障子窓に改造したもの。入り口はここではなく、脇の木戸口から入ります。
主屋の内部は北側の店舗を含む居室部と南側の座敷部に分かれ、居室部は桁行13m奥行17.5mの2階建てで、座敷部は桁行4.9m奥行9.9mの平屋建てによる構成。居室部は表通り側に店の間を置き、その奥へ通り土間が続く典型的な町屋造りの配置構成で、土間の天井は高く吹き抜けて梁組みを見せ、下には板の間に大竈やおくどさんを並べた台所となります。木割の太い部材を用いた農家の土間にも似た構えで、閉鎖的で土着感の強い空間です。
この土間部の南側にネマ・オクノネマと仏間による簡素で薄暗い家人の生活空間の場所が続き、2階へ上がる急な箱階段もあります。おそらく2階は女中部屋だった模様。この居室部でユニークなのが店の間の裏に3畳の茶室があり、しかも店側からは直接入れず、仏間を通らないと中に入れない造り。逆に表通りに木戸があり、中に入ると坪庭が広がりそこから茶室へ至る露地となっている構成で、VIP向けかはたまたプライベートの客をもてなす茶室だったのでしょう。
居室部の南側の座敷部は、茶室と同じ露地側に表玄関を置き、その奥に8畳の次の間と11畳半の座敷による構成。この座敷部と居室部とは襖二枚による行き来のみで、生活空間と接客空間とがそれぞれ完全に分断されており、意匠も大きく異なります。居室部の質実剛健で土着的な設えに対してこの座敷部は、洗練された京風の数寄屋造りとなり、華奢で繊細な意匠でまとめられた明るく優雅な空間に仕上げられています。特に畳床による床まわりは優れており、袖壁に下地窓を開け、床柱にナグリ入りの皮付き丸太を嵌めた茶室のような趣。棚飾りが無く、イヤミの無い品の良い床です。付書院の菱格子による欄間障子は、次の間との欄間に入った花弁状の透かし斜め格子と共通する意匠。
屋敷の西側には明るい庭が広がり、一角には3階建ての土蔵も建っています。3階建ての土蔵は珍しいそうで、それだけこの西川家の繁栄振りが凄かったということの証し。この庭と土蔵の奥には実はもっと広大な庭園が控えており、広い池に数寄屋建築の書院や茶室を点在させた寿楽園という名の明治期に造営された別邸があるのですが、非公開なのでおあずけです。
「旧西川家住宅」
〒523-0871 滋賀県近江八幡市新町2-22
電話番号 0748-32-7048(郷土資料館)
開館時間 AM9:00〜PM4:00
休館日 月曜日