三河島汚水処分場 (みかわしまおすいしょぶんじょう) 重要文化財
現在の荒川区には三河島の住居表示はないようで、旧”三河島町”は荒川一丁目から八丁目に名称変更されています。荒川区はこの住居表示の数が少ない区で、旧35区制で南千住・三河島町・日暮里町・町屋・尾久と5個しかなく、今の23区制でも日暮里と尾久が東西に分かれてやっとこ7個。このうち三河島町だけ消えてしまったわけで、ちょっと訳ありの哀しい歴史がある町です。ところでここは区役所・警察署・消防署等の官庁街が集中している場所で、ちょうど区の中心部で臍みたいな所ですし、嘗ては東京オリオンズのホームグラウンドだった旧東京球場もこの地にあり、都電荒川線も袈裟懸けに串刺ししています。その都電の荒川二丁目停留所の前には三河島水再生センターがあり、日本で最初の近代下水処理場だった施設で、その竣工当時の建物であるポンプ場施設が今でも残されていて、20世紀の終わりまで現役で稼働していました。
三河島地区は隅田川が大きく蛇行してカーブする地点にあり、古来湿地帯だった場所でした。元々人家は少なく田圃が広がるばかりで、いわゆる都市と郊外との結界みたいな土地故か、市中には不向きだけれど市民生活には必要不可欠な公共施設が造られていった面があり、この下水処理場のお隣には今でも火葬場がありますしその昔は屠殺場もあって、小塚原の処刑場もわりと御近所にあります。
汚水処分場が開設されたのは1922年(大正十一年)2月のことで、関東大震災の約一年半前。特に中核となる喞筒(ポンプ)場施設は当時採用され始めたばかりの鉄骨鉄筋コンクリート造りで建造されており、最先端の強固な構造体のおかげで甚大な被害をもたらした東京下町にありながらも耐え、またその優れた耐火性により東京大空襲で近隣が延焼しても焼け残った建造物群で、今でも竣工当時の姿をそのまま変わらずに見せています。この喞筒場施設は大震災や大空襲といった東京下町に襲いかかった二つの大きな厄災を潜り抜けた貴重な近代化遺産であり、その施設のほとんどが国の重要文化財にも指定されています。正門奥にある門衛所も指定内。
この汚水処分場が担当するエリアは荒川区・台東区・文京区・豊島区等で、ちょうどこの頃に都心に下水道が普及しだし始めた頃。明治中期にスタートした帝都のインフラ整備計画である東京市区改正事業の掉尾を飾る事業で、この後続けて砂町と芝浦に処分場が造られていきます。下水処理の工程はまず下水を沈砂池に入れて土砂とゴミを除去し、ポンプで汲み上げて沈殿池や触媒の入った反応池に送り込み浄化させるシステムで、ここでは北側に隅田川があるので南側から下水道管が構内に潜り込み、北へ行くほど汚水処理が進む流れとなり、最後は隅田川に放流しています。その下水道管が入るゲート部には東西二か所に阻水扉室があり、ここでメンテナンス等で一時的に下水の流入を抑える扉が地下深くに設置されています。共に赤煉瓦積みの外観ですが鉄筋コンクリート造りの建物で、屋根上にチョコンと換気筒を乗せています。
阻水扉室から北側の構内は一段低くなり、すぐ沈砂池が東西に掘られてあります。深さ5.15mの細長い池で、なんでこんな形状なのかと言うと、池の上に沈殿した土砂を掻き揚げる揚泥機を動かす為で、池の両岸にはレールが敷設してありその上を揚泥機が往復していたわけです。
さらにごみを除去するフィルターが池の北端に設置されており、ここで引っ掛かったゴミを掻き揚げる濾格機を搭載する濾格室がその上に乗っかっています。これも外観は赤煉瓦積みタイルの鉄筋コンクリート造りで、屋根は入母屋造りのスレート葺。東側だけ妻部に広い開口部を設けてあり、これは掬い取ったゴミを搬出させる為です。
ここで除去された土砂やゴミは外部へ搬出されますが、一段低くなった場所なのでこれを出すための装置が必要になります。構内の急坂にはレールが敷かれ、ケーブルカーのように二台のトロッコが往復するインクラインの方式が採用されており、その動力室が坂上の傍らにあります。これも赤煉瓦タイルの鉄筋コンクリート造り。
沈砂池から汚水は暗渠を通して地中深く埋められた量水器で下水量が測定され、北側にある喞筒室内へ流入されます。ここで東西に分けられた汚水は合流し、各ポンプ井に分水されます。
当然汚水は高低差で流入するので、喞筒室に入る時点で相当深くなっていますから、これを汲み上げて次の工程である沈殿池へ進ませねばなりません。量も膨大ですから巨大なポンプが10台も必要となり、それを収容するのが構内で最も規模の大きな喞筒室。大きさが桁行68.3mに奥行15.5mの三階建てで、規模が大きいからでしょうけれどこの建物だけ鉄骨鉄筋コンクリート造りの構造で組まれています。外観は屋根が寄棟造りのスレート葺で、壁面は煉瓦積と煉瓦タイルを張り付けてありますが、両翼を南側へ少し張り出す平面になっており、その端面は切妻屋根で出の少ない軒の下には大きな櫛型の窓が開けられています。さらに棟正面の上部には規則的に並ぶ窓に沿って白いラインが柱を横切っており、水平性を強調したこれらのデザインは当時流行していたウィーンセセッション(分離派)の影響です。一見すると堅牢で素っ気ないシンプルな公共施設ですが、実は当時としてはとても先進的な洗練された建造物だったことがわかります。
内部は屋根裏まで高く吹き抜けただだっ広い空間で、巨大なポンプが直列に10台並ぶ姿は壮観です。支柱が無いこの広大な空間を支えるためには強固な梁組が必要で、天井には下弦状に湾曲した鉄骨を組み合わせたプラットトラス構造で組まれており、その小屋組が露出していて規則的に巧妙に組み合わされた美しい梁組が見られます。