松江城 (まつえじょう) 国宝
松江城が開城したのは今から400年程前の1611年(慶長16年)のこと。それまでは出雲国の都は現安来市に併合された広瀬町にありました。関ヶ原の戦いの後に新たに藩主となった堀尾吉晴が今さら中世の山城じゃないだろうということで、交通・流通の便の良い宍道湖畔の松江に城を移すことに決めて、4年の歳月をかけて築城したのが今に見る松江城の姿です。幕末までは天守閣を始め御殿・櫓と全て揃っていましたが、明治期の初めに天守以外は全て破却されており、その天守も売却寸前までいったもののなんとか一命を取り留め、今では貴重な現存天守として国宝の指定も受けています。
その平面構成はちょうど卵のようなオーバル型の曲線を描いて内濠沿いに石垣が組まれており、その卵の尻の部分に大手門と南口門を開き、反対側に北ノ門を置いて搦手口として防御を固めています。また同じ卵でいうと中心やや下目の重心に当たる部分に天守が置かれており、この周囲に二之丸・北之丸が取り巻く構成で、二之丸に大手門と南口門が、北之丸に北ノ門が設置されています。登城はどちらからでも可能です。
明治期に更地となった二之丸には様々な施設が出来たようで、大正天皇行幸時の行在所として造られた洋館の「興雲閣」やお引っ越しして来た松江神社などがあり、御殿があった往時を偲ばせる物件は何もありません。これじゃあんまりということからか「太鼓櫓」「中櫓」「南櫓」等の櫓類が幾棟か復元されており、少なくとも内濠側から見た場合は城閣としての体裁が整えられています。
二之丸から一ノ門を抜けると天守閣のある本丸。漆黒の鎧を纏った様な威風堂々たる面構えのこの天守は、五重六層による大型の城郭建築で、天守の平面規模では姫路城に次いで2番目、30mに及ぶその高さは姫路城・松本城に次いで3番目となり、古さでも丸岡城・犬山城・彦根城・姫路城に次ぐ5番目となります。
形状としては入母屋造りの二重櫓の上に、二重の望楼を載せた古典的な望楼型のスタイルで、南北に入母屋屋根の破風が取り付き、南側に入母屋造りの附櫓が連なる複合式天守です。入母屋の破風屋根が幾つも織り成す複雑な外観は、千鳥が羽根を広げた様な姿にも見えることから「千鳥城」とも呼ばれており、南面から見るとその姿がよくわかります。
上層は壁面が白漆喰なのに対して下層は黒い下見板張りで覆われており、モノトーンによる強いコントラストを見せるとともに安定感も与えています。またこの下見板には石落としや鉄砲狭間が隠されており、そんな仕掛けが黒板によって巧妙にデフォルメされたとても実戦的なお城です。
土台の石垣は、天然の石をそのまま加工せずにパズルの様に積み上げた野面積(のづらづみ)と呼ばれる工法で、有名な近江の穴太衆が手掛けたもの。粒が不揃いな方が堅固に組まれるようで、彦根城でも見られます。築城全体の工期5年の内、3年はこの石垣積みに充てられていたとか。
内部へは附櫓から入り、一段上がると天守の地階になります。14坪の広さがありますが倉庫となっており、籠城の際の兵糧攻めに耐えられるように米や塩などの食料を貯蔵し、深さ24mの井戸が掘られて飲料水も確保できるようにしてあります。
一・二階は八間X六間の母屋に幅二間の武者走りが取り巻き、三階は同規模の母屋、四階は四間四方の母屋に南北幅一間東西幅二間の武者走りが取り巻く各階の平面構成で、何れも広い板の間の上に太い柱による強固な梁組が見られます。この柱が異色で、肥え松の一本柱に板を寄せ合わせて鉄輪で締めて組まれており、柱をなるべく太くして大規模な城郭建築を支える手法なのでしょう。太い柱列が整然と林立する光景はさながら神殿のような趣が感じられます。この松江城のみに見られる工法。
壁面には石落としや鉄砲狭間の小窓が開けられています。
最上階は四間X三間の母屋に幅半間の入側を巡らせた構成で、壁は無く窓には高欄が取り付きます。望楼ですから当然眺望は最高で、宍道湖の風景が特に印象的であり、良く晴れた秋の夕暮れ時は一際美しい光景が広がります。
「松江城」
〒690-0887 島根県松江市殿町1-5
電話番号 0852-21-4030
営業時間 4月〜9月 AM8:30〜PM6:30
10月〜3月 AM8:30〜PM5:00
年中無休