光琳屋敷 (こうりんやしき)
熱海の海を見下ろす高台にあるMOA美術館は、神道系新興宗教の世界救世教が運営する美術館で、その教祖が蒐集したコレクションの中に尾形光琳の代表作である国宝「紅白梅図屏風」が含まれており、1985年(昭和60年)に開館三周年を記念して京都にあった光琳の二条新町屋敷が敷地内に復元されています。この光琳屋敷が置かれた”茶苑”と呼ばれる一画には、由緒ある茶室や片桐門等が移築されて茶道の空間が立体的に展示されており、本館内のやはり復元された秀吉の「黄金の茶室」も含めて数寄屋建築に対して熱心な美術館のようです。
尾形光琳と言えば琳派の代表的な芸術家ですが、実家は「雁金屋」という京都の代表的な呉服商で、あの修学院離宮も造営した御水尾上皇の中宮東福門院がパトロンだったというとても裕福な家柄。本阿弥光悦の遠い親戚にもあたり、それこそ当時としては最上クラスの文化芸術のエッセンスを幼少から洗礼して育った御仁で、その経緯が呉服商という家業から装飾性が強く、知的で洗練されたあのモダンな作風が生み出されていったのでしょう。父没後は遺産として二つの屋敷を相続され、そのうちの一つ”西京ノ屋敷”に今は仁和寺内に移築された茶室の遼廓亭(国重文)がありましたが、莫大な遺産も放蕩の限りを尽くして全て散在し、晩年に構えた邸宅が二条新町の屋敷です。
この二条新町屋敷が建てられたのは1712年(正徳二年)のことで、光琳が54歳の時。亡くなるのが1716年(享保元年)ですから最後の4年を過ごした家と言うことになります。今の住居表示で見ると中京区新町通り二条下ルとあるので、中京区頭町あたり。近辺だと二条城大手門から500m程東へ入った場所で、今でも町家が建ち並ぶ一画ですね。
平面図や仕様書が光琳の子孫の小西家に保存されており、それに基づいて茶室研究の権威である堀口捨己博士が監修して復元させたもので、仕様書通りに門のある正面を西向きに建てられてあります。木造二階建ての京町家ですが、京町家に数多く見られる表屋造り(正面を格子作りの店舗とする)ではなく、高い塀で表通りと仕切って門の奥に居宅を並べる大塀造りで、門を潜ると石畳の路地が奥へ続いて台所へ向かい、門の中側すぐ右手に式台があります。
この式台が一番西端となり、東へ直列に5部屋並び、南側を縁側が走る構成です。式台側からは東へ向かって雁行型に軒が連なる形状となり、柿葺の深い庇とその下に障子戸が連続する外観は、少しだけ桂離宮の書院群を彷彿とさせます。その深い庇は化粧屋根裏天井で、松の皮付き丸太で支えており、内部への採光に程良い緩衝地帯を作り出しています。
式台の隣の部屋は十一畳の座敷で、ここが主室。畳床も付いた書院造風の座敷ですが、床柱は吉野杉の絞り丸太ですし、障子戸の上には竹連子窓が並ぶので、数寄屋風書院造の座敷ということなります。ユニークなのが壁面で、鴨居の上は赤い大坂壁ですが、鴨居下には不思議な紋様の紙が張り付けてあります。この紋様は光琳がデザインした”光琳文様”と呼ばれるもので、京都の老舗唐紙屋の唐長に伝わる版木から採用されたもの。床壁も同様のものです。
この書院の隣は五畳半の茶室となり、こちらも畳床と大坂壁という構成ですが、光琳文様の壁紙は張られていません。網代天井や下地窓など数寄屋の意匠で構成されていますが、奥に五畳の似た様な間取りの水屋が続いていて、これは仁和寺の遼廓亭が二つの四畳半の座敷(内一つは水屋)を繋げた構成に似ており、光琳独特の意匠なのかもしれません。
水屋の奥は八畳の居間が二間続いて台所の土間空間と一体化しています。台所は「トオリニワ」と呼ばれる京の町家独特の細長い土間となり、天井近くは野太い梁が渡されて高く吹き抜けた空間を支えます。
この台所に接する八畳の居間の南側に八畳の座敷が続き、その奥に三畳の仏間が取り付きます。光琳は富裕層といえども町衆でしたから、他の京の代表的な芸術家同様に日蓮宗の信者で、墓所も日蓮宗の京都妙顕寺塔頭泉妙院内にあります。
そしてこの仏間のある八畳の座敷の西側に、庭に突き出る様な形で茶室があります。「青々庵」と命名された小間の茶室で、銅板葺による切妻屋根の正面に、軒の深い銅板葺の庇が取り付きます。正面の中央下に躙口が開けられるのは織田有楽斎の好んだスタイルで、仁和寺の遼廓亭が有楽斎の如庵のコピーであることから、その影響を受けてのことでしょうか。その躙口の上に連子窓が開き左手に下地窓、少し離してさらに左にもう一つ下地窓が開けられています。
内部は三畳台目の間取りで、中柱が無い台目切り本勝手となり、天井は台目畳上から床前まで掛込天井で他は化粧屋根裏となる構成。窓の多い茶室で、化粧屋根裏天井に突き上げ窓が、台目畳に下地窓による風炉先窓が、床にも墨蹟窓が開けられており、全部で5つあります。書院隣の五畳半の茶室が数寄屋風の砕けた意匠でしたが、こちらは居住まいを正す端正な意匠で、用途に応じて使い分けていたのでしょうか?