小菅監獄 (こすげかんごく)



 東武伊勢崎線の小菅駅近くにある東京拘置所は、その昔は小菅監獄と呼ばれた刑務所で、終戦後のGHQによる巣鴨プリズン設立に伴って拘置所が巣鴨から引っ越しし、そのまま居座ったのが今の姿です。元あった小菅監獄は1971年(昭和46年)に栃木県の黒羽に引っ越してしまったので、さながら庇を貸して母屋を乗っ取られたような形ですね。その小菅監獄時代の建物を流用し拘置所として機能していましたが、さすがに順次取り壊されて新築に取って変わられ、監獄当時の建物で現在残るのは管理棟のみです。でもこの管理棟、中々見応えのあるユニークな建造物です。

 

 元々当地には江戸期に徳川将軍家の御殿があった場所で、明治の御代に変わった1889年(明治22年)に東京集治監として刑務所の歴史がスタートし、その後は小菅監獄と改名して重罪犯の収監に務めていましたが、1922年(大正11年)の関東大震災に被災し倒壊してしまい、ようやく再建されたのが1929年(昭和4年)のこと。旧獄舎が煉瓦積みだった為に耐震性が弱く倒壊したので、それならばということか新獄舎は当時としてはまだ珍しかった鉄筋コンクリートで建造されています。しかも実際に施工に従事したのは受刑者達で、いわゆるセルフビルドの工法。
 全体のモチーフは鳥がイメージされており、管理棟は正面から見ると首を上に向けて翼を広げた様な鶴の姿を成し、平面で見ても管理棟の奥に監房が左右にV字状に羽根を広げた様な姿を持つ、とても独創的でユーモラスな外観を見せています。特に時計塔も兼ねた監視塔は横から見ると尖端が前に少し傾いていてまさしく鳥の嘴を彷彿とさせますし、左右の時計は目を現わしているのでしょう。ちょうどこの時期はドイツ表現主義の傾向が強かった頃ですしね。

  

  

 設計を担当したのは、司法省の技師で建築家集団「ラトー」のメンバーでもあった蒲原重雄。前任の後藤慶二が36歳で夭折した後を受けて刑務所建築の道を進み、その後藤慶二が設計した豊多摩監獄(中野刑務所)の改修や、巣鴨や府中の刑務所も担当しましたが、前任と同様に34歳で早死にしています。刑務所の設計は中々長生きできないようですね。
 後藤慶二作の豊多摩監獄が日本の表現主義の曙を告げる作品とすれば、この蒲原重雄作の小菅監獄はその棹尾を飾る作品で、最初と最後が共に監獄であり同職の前後任でバトンタッチしているのも面白い点です。

 

 

 そのユニークな意匠は外観のフォルムだけではなく各ポイントにも色々と見られ、正面入口扉両脇のタイルも鳥の翼をモチーフとしていますし、その扉の取っ手付け根に竣工年の「昭和四年」の文字が嵌め込まれているのも面白い箇所です。内部の玄関ホールもアールデコ調で、特に天井ライトの構成がとても印象的。

  

 

 裏手には開かずの門があります。これは集治監時代の遺構で、監獄を再建させた際に記念物として保存されたものです。毎年秋の矯正展では、ここで記念撮影が行われます。





 「東京拘置所」
  〒124-0001 東京都葛飾区小菅1-35-1