米谷家住宅 (こめたにけじゅうたく) 重要文化財



 中世の区割りに江戸期の民家や寺院が密集する奈良の重伝地区今井町には、全部で8件の重文民家があってその殆どが現在も住居として動態保存されていますが、唯一旧米谷家住宅のみが手放されて今は国有となって一般公開されています。この米谷家のある中町筋は特に保存状態の良い物件が並ぶエリアで、1軒挟んで西側には重文民家の音村家住宅も有り、ここも公開されているので(当主の説明付き)セットで見学するのがベター。
 ちなみにこの米谷家にはガイドも常駐しているのですが、公務員ということなのかお昼の12時から1時までお昼休みということで戸を閉めてしまいます。紋切り型のお役所仕事ということなのでしょうね。

 

 米谷家は金物と肥料を扱ってきた商家で、代々の当主が”忠”を名に入れることから屋号を「米忠」と称していました。江戸中期の5代目当主忠五良の時に大いに繁盛したそうですが、戦後の1956年(昭和31年)に相続税の物納として国有化されて今に至ります。
 敷地はあまり広くはなく、中町筋に面して間口6間奥行14間程の面積で、今井町の中では中店に相当します。表通り沿いに主屋を建て、背後に土蔵と蔵前座敷があり、いずれも国の重要文化財の指定を受けています。
 その主屋は屋根が切妻造の本瓦葺で、桁行11.9m奥行10.9mの大きさ。18世紀中頃の建造と見られており、平入りの建ちの低いこじんまりとした町家で、軒下の虫籠窓も少なく閉鎖的な装飾性も乏しい古風な外観です。このシンプルでアンティークなマスクに、内部との関連性が見られるようです。

 

 内部は東側に土間、西側の床上に部屋が整然と並ぶよくある町家の平面構成ですが、なによりもその土間が異様に広いことで、半分以上を土間が占めています。さらには天井が高く吹きぬけていて、傍らには大きな4連の竈を置き、その周囲に柱や梁を渡して煙返しで仕切っており、その構成は農家建築と共通のものです。一般的な町家ならば本来ここは通り土間となり、細い土間が奥まで続くものですが、ここでは作業場のような様相となっており、鍛冶場の痕跡もあることから金物製作が主体で、合わせて小売りも兼ねていた商家ということなのでしょう。外観にあまり凝った意匠を見せないのも、そんな理由からなのでは?
 天井部の梁組は土間の強固でプリミティブな姿に比べて意外と簡素なものになり、木割も細く貧弱な造りとなっています。このあたりは京都あたりの近世町家と似た姿。
 表通り側には二階に厨子がありますがどうみても農家風のスタイルで、馬小屋を思わせます。

  

  

 床上の部屋部も特異な構成で、他の今井町の町家が土間に沿って2列に南北3部屋ず計6部屋並ぶ構成なのに対して、一番北側の部屋が繋がって横長の一室となっており、変形5室の平面構成となっています。また上手側の部屋が畳一枚分と狭く物置代わりに使われていたようなので(「みせおく」「なんど」)、実質的には「みせ」と8畳間の「なかのま」、それに細長い9畳間の「だいどころ」の3部屋が土間沿いに並んだ構成となっており、「みせ」から段々と床が高くなっていくという点も特徴の一つです。
 「みせ」は4畳半の広さによる薄暗い板の間で、通り側の格子窓には蔀戸を吊り、外側には邪魔にならないように摺上げ戸が嵌っており、比較的古い町家に見られた型式。
 「なかのま」は日常生活の中心となる茶の間だった部屋ですが、土間に対して広く開かれ見渡せるので、作業場の事務所的な性格が強い場所だったのでしょう。
 「だいどころ」は天井に簀子が張られ、曲がった梁組も見せた農家風の造り。縁側もあって庭を眺める座敷となっており、台所の役目をあまり見せていません。「おくのま」とも呼ばれていたので、家族用の座敷として使われていたのかもしれません。以前は裏庭に張り出して縁側付きの客用座敷があったのですが、幕末の増築と判明して破却されています。

 

  

 裏庭には土蔵前に蔵前座敷があり、こちらは江戸後期の1850年(嘉永3年)建造の数寄屋風建築。この周りにさらに蔵が二棟並んでいたそうです。

 



 「旧米谷家住宅」
   〒634-0812 奈良県橿原市今井町1-10-11
   電話番号 0744-29-7815
   開館時間 AM9:00〜12:00 PM1:00〜5:00
   休館日 月曜日