糟谷邸 (かすやてい) 愛知県指定文化財
吉良上野介と言えば忠臣蔵で悪役にされちゃった人物、地元吉良町では「お気の毒なお殿様」と言うコピーで、稀代の名君だったと称えるプロモーションを展開している真っ最中。その吉良町は近郊で雲母(キララ)が採掘されたことから名付けられた濃尾平野ののんびりした田舎町で、三河湾に臨した気候も温暖で静かな所。温泉もあるし海水浴場もあるし、暖かいからカーネーションや洋ランの栽培が全国屈指の生産量で、苺や無花果等の果実の生産も盛んな、名古屋に程近いとても過ごし易そうな町。でもやはり過疎化は進んでいるようで、近年名鉄の三河線は碧南止まりで廃線となり、西尾線の町内の駅も廃止になり、ますます裏寂れた風情が募るばかりです。町を流離っても若人の影は見えず、御老体の姿ばかり。全国の小規模の町は何処も同じ運命なのでしょうね。
その最近廃止になった無人駅の「三河荻原」駅近くに、糟谷邸という豪農兼豪商の館が遺されています。糟谷家は近在の大地主だった家柄で、敷地4500uに主屋・長屋門・土蔵・屋敷神等の建造物が点在して建てられていて、今は吉良町が購入し敷地内に図書館と地元出身の作家尾崎士郎の記念館を作り邸宅共々公開しています。
糟谷家は16世紀初めに当地に移り住んで帰農した元武士の地主で、米穀で財を築き地場産業の三河木綿の問屋としても栄えた家柄でした。色々と事業を手広く仕掛けた家らしく、金融業・肥料卸小売・日用雑貨商・山林経営などで成功し、1981年(昭和56年)に最後の当主が没するまで繁栄していました。翌年に町が購入し文化施設として使用していたようです。かつては敷地の東から北に土蔵が8棟立ち並び壮観な様相だったようですが、1944年(昭和19年)の東南海地震により殆ど倒壊し、土蔵は現在2棟のみ。主屋前に素朴な長屋門が建てられており、18世紀中頃の建造と推定される敷地内で最も古いもので、吉良家から賜った謂れを持っています。
主屋は木造一部二階建てで、建造は18世紀中頃とみられていますが改築を何度も繰り返していて、さらに地震などで撤去・移築などもあり、大きく当初の姿からは変更されているようです。豪農兼豪商だった家業のせいか、店舗・土間・座敷と大きく三部構成の間取りで、長屋門を入って正面入り口が店舗部、その奥が土間部になり、店舗・土間の西側に座敷部が連なります。このうち店舗部が一番古い箇所となり、1763年(宝暦13年)の祈祷札がありますが大正期に一部改築されています。
店の暖簾を潜ると土間部。天井が高く吹き抜けた広大な空間で、板の間の台所や勝手に作業場・臼場に井戸も設えた生活空間。曲がりくねった太い木材による豪壮な天井の梁組みが、豪農の顔を見せています。
座敷部は1844年(天保15年)頃に改築されていて、家人の生活する居室部に明治期に改築された数奇屋部分と、戦前名古屋に移築された離れと、建築当時とは大きく変わっています。店舗と土間の西側に並ぶ居室部は、1階に12部屋、2階に6部屋もあり、仏間に子供部屋・奥女中部屋と多彩な構成。南側の日当りの良い座敷は接客用で仏間が中心になり、北側には主人夫婦の質素な部屋が続きます。特にユニークなのが夫人の部屋で、二階の子供部屋へ上がる箱階段が奥にあるのですが、ここ以外は下に降りられないので、必ず親に監視下に置かれるシステムとなっています。また廊下越しに北側の土蔵も見渡せ、色々と睨みを利かせるのに好都合だったようです。
居室部から南側へ突き出すように式台があり、この先にかつて書院造りの離れがありました。いわゆる繋ぎの間になり数寄屋風の寄り付きが付属しています。
居室部の奥にある数寄屋部は明治初期の改築で、炉も切られた6畳の座敷と茶室に水屋による構成の賓客用の瀟洒な空間。当主は表千家の久田家と交流があり、久田家の指導により設えたそうです。座敷の南側に見える露地である庭には、隣の茶室へ続く待合からの飛石が続いています。
その茶室は3畳台目の間取りで、網代天井に袖壁に下地窓を開けて、躙口と貴人口を並べた構成。床の後壁が通路との関係から斜めになっているのが少し変。
庭園は昔あった離れの跡地で、幕末期に表千家の家元にある著名な書院風茶室残月亭の写しが久田家により造られ、その後明治期に数奇屋部がやはり久田家によって改築されて、二重茶庭の構成だったそうですが、戦前の1932年(昭和7年)にその離れが名古屋へ移築されて、今は奥の茶室へ続く苔むした広い露地となっています。
「旧糟谷邸」
〒444-0524 愛知県幡豆郡吉良町大字荻原字大道通14-1
電話番号 0563-32-3400
FAX番号 0563-32-3700
開館時間 AM9:00〜PM5:00
休館日 月曜日 12月29日〜1月3日