掛川城御殿 (かけがわじょうごてん) 重要文化財



 各地に残る城郭建築のうち天守閣は12件しか現存していないのですが、さらに御殿ともなると本当に少なくなり二条城と高知城と掛川城ぐらいしか残されていません。明治期以降はもう必要ないだろうということで次々に破却されてしまい、世界文化遺産の姫路城でさえ無い始末。国宝の彦根城の表御殿も戦後復元されたもので、殿様ライフの日常空間は殆ど残されていないのが事実。その一方で何故か山内一豊に因んだ御殿は現存しており、全国で唯一天守と御殿がセットで残る高知城と、御殿のみの掛川城は双方共に山内一豊が城主だった御城。何故でしょうかね?それだけ家来や領民に支持されていたのでしょうか?掛川城の天守は近年木造で復元されており、その足元の石垣下に二の丸御殿が建てられています。

 

 掛川城は戦国期の文明年間(1469年〜86年)に、今川家の家臣朝比奈氏が平山城として開城したのが始まりで、桃山期の1590年(天正18年)に秀吉の命により山内一豊が入城して大改修し、今に見る城下町として整備したのがその由来。関ヶ原の戦いの後は山内一豊は高知に移り、徳川の譜代大名の居館となりましたが、幕末の安政の東海大地震(1854年)で倒壊し、御殿だけ翌年から文久元年(1861年)にかけて再建されて、明治期以降は役場や学校・農協等に使用されていました。木造平屋建てで屋根は寄棟造りに玄関部は入母家造りとなり桟瓦葺です。国の重要文化財指定。

 

 建坪287坪に7つの施設が連なって1棟と成す書院造の建物です。内部は大雑把に式台付きの広間と書院部・小書院部・諸役所部の4つのゾーンに分かれ、それぞれが入側や板敷によって連絡する構成で、特に広間と書院部は矩折りに配置されており、広間からそのまま延ばされた1畳半の入側が書院部をぐるりと廻り込んでいます。この入側と座敷との境には無目敷居で建具が入らず、欄間が入るだけのフルオープン状態。

 

 

 書院部は城主の対面所となる最も格式の高い場所で、主室の20畳の上の間と8畳の次の間、それにそれぞれ16畳づつの二の間・三の間の計4室から構成されています。いずれの座敷も竿縁天井に土壁とシンプルな造りで、凝った透かし彫りの欄間や極彩色の障壁画や襖絵は一切無い、装飾性皆無の簡素というよりは質素な意匠です。上の間はさすがに床や違い棚を備えていますが付書院もなく、太い床柱や長押から感じられるように重厚で質実剛健な造り。戦災で焼失した名古屋城本丸御殿や二条城二の丸御殿の江戸初期における豪華絢爛たる意匠とは正反対のもので、江戸末期の奢侈の禁止・倹約の励行が推進された武家社会の終焉における時期に再建されたことが反映しているのでしょう。

 

 

 この書院部のすぐ裏手に城主の公邸にあたる小書院部が連なります。12畳の小書院と7畳半の次の間、それに20畳の長囲炉裏の間の3室から構成されており、小書院は城主の執務室として使われていました。この小書院と書院上の間とは背中合わせに配置されていて、逆配置の床と違い棚以外はあとの意匠は全く同じという不思議な構成。長囲炉裏の間は城主の居間で、ここで奥方と日常生活を過ごしていた場所です。名の通り嘗ては長囲炉裏があったのかもしれませんが、今はだだっ広い道場のような部屋です。この北側に台所部が連なっていましたが、明治期に破却されています。

 

 小書院の東側、又は広間の北側は諸役所部にあたり、中央に広い板敷廊下が走り、その両側に御用人・大目付・吟味奉行等の役職の部屋や、警護の詰所や帳簿の賄方等の部屋が並びます。書院部・小書院部が採光も充分で明るい空間なのに対し、こちらは昼でも薄暗く天井板も無い板張りの部屋ばかりなので鬼の様に寒いです。北東隅にいかにも薄ら寒そうな足軽用の土間があり、南側の式台と比べてみると階級社会における歴然とした身分の格差というものを感じずにはいられません。

 

 



 「掛川城御殿」
   〒436-0079 静岡県掛川市掛川1138-24
   電話番号 0537-22-1146
   FAX番号 0537-23-1099
   開館時間 2月1日〜10月31日 AM9:00〜PM5:00
         11月1日〜1月31日 AM9:00〜PM4:30
   休館日 12月30日〜1月1日