海会寺 (かいえじ) 重要文化財
その昔堺の茶人がこぞって参禅したのが南旅篭町にある臨済宗大徳寺派の南宗寺、周囲を掘割のように川が流れる山内には全部で5つの寺院が密集しており、しかも茶室や枯山水の庭園が多くあることから、本家本元の京都大徳寺を限りなくスモールダウンしたような風情が見られます。プチ大徳寺。
山内の寺院でうち3つは南宗寺の塔頭なのですが、南宗寺の対面にある海会寺(かいえじ)だけは同じ臨済宗なのに何故か東福寺派という別系統の路線。その謎の答えは紆余曲折のこの寺の歴史にあるようです。
この海会寺は鎌倉末期の1332年(元弘2年)に東福寺の末寺として開山された古い寺院で、戦国期創建の南宗寺よりも200年程開基を遡ります。中世では6つの塔頭を数える程の繁栄ぶりを見せていたようですが、戦乱によって荒廃しさらに大坂夏の陣で全焼、茶道などにより当時の有力者と繋がりの強かった南宗寺が再興する代わりとして、山内に移し塔頭の一つとなったのが今に見る姿で、老舗が新興に呑み込まれたような話です。
でも子分に成り下がってからは色々と大変だったみたいで、寺領や法衣に過去帳も取られちゃって憤懣やるかたないことから幕府に直訴して、1661年(万治4年)に独立し東福寺派に舞い戻ったのがその経緯。
で今に残る建物もその夏の陣後の南宗寺時代のもので、本堂・庫裏・門廊が当時の姿で残こされています。隣の南宗寺は空襲で本堂や茶室等の諸堂を失いましたがここは無傷。
境内はそういった経緯もあって非常に狭く、外塀越に外からよく見える本堂も非常にコンパクトな方丈建築です。
外観は屋根が入母屋造りで本瓦葺、大きさは桁行25.2mで奥行が東側面8.0m西側面12.0m。建造は江戸初期の17世紀前期で、国重要文化財指定。
禅寺の方丈建築は、前後に三列ずつ並べた六間取りが一般的なのですが、この寺では広い一室とその後ろに小さな仏間が付いた平面構成で、西側にそのまま庫裏が繋がります。庫裏は田の字型の四間取りに竈の付いた吹き抜けの土間が並ぶ小規模な農家に近い構成。またその本堂と庫裏との境を軸線として南側に玄関である門廊が延ばされており、本堂・庫裏・玄関が一体化した建物となっている点に大きな特徴があります。
元々別の寺院を塔頭として門下に入れたことから予算をあまり使わずに仮堂に近い内容の仏堂が造られたようで、四間取りの民家に宗教儀式用の空間を足したような内容。庫裏と本堂の広さもほぼ一緒なので、門廊の軸線によって日常空間と宗教空間が完全に分断された建物です。一体化した建物ながら本堂へ行くには門廊からそのまま本堂前の広縁へ上がるので、僧侶の生活空間である庫裏には干渉せず、無駄なくコンパクトに機能的に組み上がった仏堂ではあります。
花頭窓が印象的な門廊も同時期の建造で、これも国重要文化財指定。
本堂前は枯山水の石庭が広がります。白砂の上に11個の奇岩を配した構成の内容で、「指月庭」と命名されています。庭だけ眺めているには充分なのですが、周囲の住宅が丸見えで気になってしまうので、木立や竹などで隠すとグッと良くなると思うのですが。