霞中庵 (かちゅうあん)
京都画壇のドンだった竹内栖鳳、”東の大観 西の栖鳳と並び称されるほどの日本画の大家ですが、二条城近くの川魚料理屋の倅という生粋の京生まれ京育ちで、最晩年を湯河原の「山桃庵」で過ごした以外は概ね京都市中を転居して一生を暮しています。23歳で画家としてスタートしたのは生家前の「耕漁荘」、既に京都画壇の中心人物となった48歳の時に嵯峨野の「霞中庵」、そして巨匠として名をはせた65歳の時に高台寺近くの「東山艸堂」と移り住んでいますが、面白いことに道路拡張の為に戦時中に取り壊された「耕漁荘」以外は現在別の施設に転用されており、「東山艸堂」はイタリアンレストランとして、「霞中庵」の方は球体関節人形を製造販売している企業のユーザー向け迎賓館となっています。特に「霞中庵」はかつてのメインカルチャーであった日本画から、サブカルチャーのフィギュアに居場所を取って代わられると言う昨今の風潮を体現化した様な場所です。
場所はJR山陰本線嵯峨嵐山駅近くで、駅から徒歩5分くらいの交通の便がすこぶる良い場所ですが、おそらく栖鳳が当地を購入した当時は人家も疎らで、どうやら茶畑が広がる長閑な田園地帯だった模様です。ここに公家で伯爵の壬生基修卿の邸宅が建てられており、この遺構をそのまま手を付けづに置いたままにし、新たに茶室や書院棟を建てて保津川の景色を模した庭園を築いたのがこの御屋敷の概略で、造営が始まったのが1912年(大正元年)のこと。栖鳳自身が毎日通ってあれこれ細かい指図をする等完成までに5年かかり、今では京の数寄屋建築の名品の一つに数え上げられています。敷地面積は約三千坪。
元からあった壬生家の遺構は、木造二階建ての居室部と渡り廊下で繋がる茅葺屋根の茶室で構成されていましたが、近年居室部が破却されて茶室と玄関しか残されていません。この居室部が御屋敷全体の導入部となっているので、玄関だけ残されたのでしょう。居室部と書院棟、壬生家の茶室と新たに追加された茶室がそれぞれ向き合う構成で設置されていたので、栖鳳が意図した幾何学的な構成美が損なわれています。
壬生家遺構の居室部の玄関から渡り土間で連なるのは平屋建ての書院棟。屋根が桟瓦葺の切妻に銅板葺の深い庇が四囲を取り巻く外観で、雁行型の平面に合わせて屋根もずらせてあります。この深い庇の下は一畳敷きの入側が走っており、内部は11畳の主室と6畳の次の間に4畳半の茶室と水屋が並ぶのですが、それ以上に広々とした空間が作られていて、特に主室は22畳の大広間にも変化します。南面・西面に全面ガラスを嵌めた明るく広い空間は、画室としての機能を考慮したものなのでしょう。
主室では3畳の畳床の付書院に特徴があり、月を模った書院窓は日本画の巨匠らしい意匠です。
この書院棟の南東隅から斜めに渡り廊下で繋がるのが茶室の「霞中庵」。今では御屋敷全体の名前にもなっている「霞中庵」は、本来はこの茶室自体に命名されたものです。一見すると茅葺屋根による草庵風の外観ですが実はかなり複雑な形状をしており、まず書院棟に対して斜め30°程度南西向きにずらせて建ち、その南西面を正面として茅葺妻入りの広間が作られ、背後の北面は逆に書院棟と同調するように真北へ向かって桟瓦葺の小間が突き出す形となる、タイプの異なる二つの建物が軸をずらせて背後で合体した様な姿です。
能舞台の様に斜めにずらせるのは書院棟における雁行型とのリズムに合わせたものなのでしょうし、内部からの庭園の眺めも考慮したものでしょうが、平面図で見ると三角形の箇所が組み合わさった構成となっているので、建設当時の欧米で流行していた美術・建築におけるキュビズムやドイツ表現主義の影響が見られるのかも知れません。栖鳳は欧州に滞在して西洋美術の洗礼を受けた日本画家で、東洋と西洋とのハイブリッド的な作風から「鵺派」とも呼ばれた御仁でしたから、その斬新で懐の深い作風が反映された御屋敷なのかも。
特に主室となる8畳の広間には凝った細工が散りばめられており、天井は舟底に化粧屋根裏と変化を付け、欄間には命名の由来となる霞の透かしを入れ、用材には档丸太をふんだんに使い、タイプの異なる障子で構成された二重構造の下地窓に、床脇の地袋天井には青貝の螺鈿による紅葉散らしの紋様が入る充実ぶりです。
庭園は今は破却された旧壬生家居室部の主屋角に池があり、ここから南東へ向かって書院棟と茶室の前を横切る構成で、栖鳳自身が作庭したものとのこと。但し戦後は植治(小川治兵衛)が手入れを担当していたので、ここかしこに植治風の石の置かれ方が見られます。かつてはすぐ側を流れる有栖川の水を引き入れていたそうですが、現在は行っていません。嵯峨野の隠れた紅葉の名所の一つです。