如庵 (じょあん) 国宝



 国宝犬山城の麓にある犬山ホテルの敷地内に、有楽苑と名付けられた庭園があります。この有楽苑には国宝の茶室「如庵」と旧正伝院書院が移築保存されて公開されています。国宝の茶室はこの如庵以外には京都山崎の「待庵」、大徳寺竜光院の「密庵」と三席しかなく、極めて貴重な遺構であり、その後の日本建築史に大きな影響を与えた重要な建造物です。
 この如庵は、織田信長の弟長益(有楽斎)が、隠居所として過ごした京都建仁寺の塔頭正伝院内に建てられた物で、1618年(元和4年)に完成しました。有楽斎没後もそのまま寺内に置かれていましたが、1873年(明治6年)に西隣の永源院に移され、さらに1908年(明治41年)に三井家に売却され東京赤坂に移り、戦災を免れる為に1938年(昭和13年)に三井家の別荘があった大磯に疎開、さらに1972年(昭和47年)に今度は名古屋鉄道に買われ現在の位置に落ち着きました。流転の多い茶室としても知られています。
 まず有楽苑の入り口で草履に履き替えて苑内に進みます。順路に従うと岩栖門を潜り旧正伝院書院の玄関に向かいます。この書院は1618年(元和4年)に如庵に隣接して建てられた有楽斎の隠居所で、屋根は切妻の銅版葺で入母屋造り。南面に7畳と6畳、その北側に6畳間が直列に3部屋並び、外部に広い縁側を回した構成になっています。7畳の上の間には炉も切られ、ここで茶事も行われていた模様です。国の重要文化財指定。

 

 縁側の南東角に繋がるように如庵が建てられています。この縁側はそのまま如庵内部の廊下部に入り込むような構造になっていて、書院と茶室との行交いが無理なく行える巧みな配慮が施されています。順路は書院南西にある含翠門をいったん出て、萱門を潜って広い書院南庭に入ります。

 

 書院南庭から延段を通って、東側の如庵の露地に入ります。

 

 露地には蹲踞と大きな井戸があります。蹲踞は自然石をそのまま手水鉢としたもので、朝鮮出兵の際に加藤清正が釜山沖から持ち帰った物との由来があり、「釜山海」の銘が刻まれています。井戸は「佐女牛井」と呼ばれ、有楽斎が茶道の師事を仰いだ村田珠光の佐女牛井と形が似ているため名付けられた物です。

 

 如庵の外観は屋根は切妻の柿葺で南面に庇が付き、妻に如庵の額が掲げられています。この額は元々この茶室に付けられていた物ではなく、大阪天満屋敷にあった茶室のもの。庇の左奥に二枚障子の入り口があり、この奥には「扈従の間」と呼ばれる短い廊下になっていて、そのまま書院廊下に繋がります。この扈従の間には置刀掛けが据えられていて、供待として使用されていた模様です。

 

 外観で大きな特徴としては左端に袖壁を盛って土間庇を設えて、この土間に誘い込むようなスペースを造り出していることです。そしてこの土間に入って右手に袖壁に向かい合わせるように躙口を切っており、茶室正面からは見えない構造をとっています。袖壁には上下に少し潰れた丸窓があり、柔らかな表情をこの土間空間に与えています。

 

 内部の間取りは二畳半台目で、台目の点前座に炉を向切り。炉先に中柱を立て板壁を作り、大きく火灯形にくりぬいてその先に半畳間を置く配置で、客座を広くゆったり見せる工夫がなされています。天井は床側が紫竹の竿縁天井で、前面の庇部は化粧屋根裏に中央に突上げ窓が開けられています。窓は前面躙口横に連子窓と隣に下地窓、躙口上に下地窓が開けられていますが、特筆すべき点として点前座横の洞庫の上に細い紫竹と白竹を詰打ちにした窓が2つあり、これが「有楽窓」と呼ばれ名を知られています。正伝院内にあった頃、隣が墓地だった為に直接目に入れないようにした工夫で、竹同士の隙間から漏れる微かな光が障子に映り、柔かな採光により微妙な陰影を室内に与えています。
 床は下座床で、床脇と点前座との間に三角の地板を嵌めこみ、給仕をスムーズに行いながらやはり部屋を広く見せる機能的な配慮で、「有楽囲」「筋違の囲」と呼ばれる特に優れたデザインとして知られています。腰張りには古い暦が貼られており、独特の文様が室内に面白みを与えて、利休の目指した侘び寂びとは全く異質の、モダンデザイナーとしての有楽斎の豊かな発想が伺えます。「暦の間」とも呼ばれています。これらの独創的なスタイルは後世に大きな影響を与え、後年尾形光琳がこの如庵に倣って自分の敷地内に模写をした遼廊亭を造り、今は京都洛西の仁和寺に移されています。

 



 「有楽苑」
   〒484-0081 愛知県犬山市御門先1番地
   電話番号 0568-61-4608
   開苑時間 3月〜11月 AM9:00〜PM5:00
          12月〜2月 AM9:00〜PM4:00
   休苑日 無