犬山城 (いぬやまじょう) 国宝



 国内の城閣で現存する一番古い天守閣はどこだ?という論争が昔からあり、昭和三十年代までは愛知県の犬山城が最古と伝承されていましたが、1965年(昭和四十年)に実施された解体修理によって建造年代がどうも考えられた時期よりも下がることが判明し、そうすると福井県の丸岡城の方が古いのではないのか?という話が出てきて、互いに国内最古級と曖昧な表現を謳っているのが現状です。犬山城国宝指定の根拠は建造年代でしょうし、丸岡城は重要文化財ですしね。でもこの犬山城はロケーションの良さが特筆もので、木曽川沿いの河岸段丘上に聳え建つ姿は確かに素晴らしく、国内の絵になる風景の城ランキングではトップでしょう。

 

 この犬山城は愛知県北部の木曽川を挟んで岐阜県と対面する場所。つまり戦国期には尾張国と美濃国との国境に位置し、断崖絶壁上の全方位に見晴らし良好なロケーションが、天然の要害として戦略的に重要視され築城された理由なのでしょう。以前は室町後期の1537年(天文六年)築城とされていましたが、現在では関ヶ原の戦いの翌年である1601年(慶長六年)に建造されたと見られています。明治期に廃城となり、門や櫓等は全て棄却されて、今は天守だけが残るのみ。城内は園地化されて桜や紅葉の名所となっています。

 

 その数少ない現存天守の一つに数え上げられる天守閣は、外観三重内部四層の望楼型の天守となり、高さ19mに面積360.353uで約百十坪程の広さ。石垣の高さは5mあるので、地上からは24mとなります。屋根が二重の入母屋造りの本瓦葺で、その中央に同様の入母屋造り本瓦葺の望楼が上に乗り、東南と西北隅に附櫓が張り出す構成。望楼上の妻には鯱鉾が付けられ、棟瓦には永年この城の当主だった成瀬家の家紋であるカタバミの紋様が入ります。

 

 

 この天守の最大の特徴は下層と上層である望楼の意匠が大きく異なる点。これは建造年代に誤差があるからで、まず当初の1601年に徳川家の家臣である小笠原吉次が城主として下層部分の一・二階部分を建造し、その後1617年(元和三年)に城主となった尾張藩家老成瀬正成がその数年の間に望楼を増築し改造したのが今に見る姿です。つまり複合建築で、当初からこのような望楼型の天守ではなく、居館のような住宅建築に近い建物だったのでしょう。下層部は大壁造りで軒裏や破風まで漆喰で塗り固めてありますが、望楼は梁や柱の構造体が露わになる真壁造りで軒裏や破風は木地のまま。また下層部は石落としや鉄砲狭間の小窓が開くのみの武骨で閉鎖的な外観ですが、望楼は桟唐戸の扉の両脇に大きな花頭窓が開き、周囲を高欄付きの廻縁が取り付く軽快な意匠と変わります。戦国期と平穏期との違いなのでしょうかね。望楼下の唐破風は成瀬氏の増築によるもの。

 

 

 内部は石垣が地下二階分にあたり、野面積みと呼ばれる小さな自然石を加工しないでそのまま積んだ古い技法によるもの。支える梁や柱も手斧の跡も残る野太い部材で組まれています。

 

 平面で見ると手前を底辺とする台形状で、一・二階は中央部に部屋が造られ、その周囲を板の間の武者走りが廻る構成です。特に一階には違い棚や帳台構えが付いた畳敷きの座敷があり、城主用の上段の間だった部屋ですが、これも成瀬氏が改造した箇所で建造当時のものではありません。二階には東・西・北と三方に武器棚を設けた武具の間もあります。

 

 

 最上階の四階は一室のみで、二十八畳ばかりの広さ。望楼ですから眺望は本当に素晴らしく、足元の木曽川も恐ろしい程に良く見渡せます。高所恐怖症の方にはちょっと怖いかも。

 



 「国宝犬山城」
  〒484-0082 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2
  電話番号 0568-61-1711
  入城時間 AM9:00〜PM5:00
  休館日 12月29日〜31日