高山寺遺香庵 (こうざんじいこうあん)
国宝の「鳥獣人物戯画」や紅葉の名所としても知られる栂尾の高山寺は、日本で初めて茶を植えたという由来が残るお寺で、栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種を高山寺を再興した明恵上人に譲り、それを当地で栽培し増殖させて全国各地に広まったという伝説があります。実際には平安初期に茶自体は輸入されていたようですが、鎌倉初期に栄西が輸入してここに栽培したのは抹茶なので、今の茶道に繋がる茶の発祥地はこの高山寺ということになります。茶園も山内にあり。
で、この高山寺には発祥地にもかかわらず長いこと茶室が無かったので、戦前の近代数寄者が集って茶室を寄進することになり、明恵上人700年遠忌に因んで1931年(昭和6年)に「遺香庵(いこうあん)」という茶室を建てています。
茶室のある一画は庫裏を挟んで国宝の石水院の反対側にあり、石水院拝観用の門前を過ぎて奥に進んだ地点が入口。ここに梅見門があり、緩やかな傾斜の尾根道の露地を進むと突きあたりに小さな待合がお目見えします。桂離宮の卍亭に似た宝形屋根の四阿なのですが、天井に銅鐘が吊下がっており、すぐ下に庫裏があることから鐘楼としても兼用されているようです。この尾根道が露地の塀でもあり結界となり、苑路ともなるユニークな構成。
この待合から少し戻って分岐炉を右へ下りると茶室の前へ出ます。茶室の設計は三越の大番頭で代表的な近代茶人として知られる高橋箒庵(そうあん)が行い、施工はその近代茶人お抱えの数寄屋大工だった三代目木村清兵衛が担当しています。箒庵は東京護国寺の茶室群を造って東京における茶道の本山とした張本人で、益田鈍翁の後を受けて近代数寄者のドンだった人物。
南側に小間を置き水屋を挟んで北側に広間が並ぶ構成で、小間は瓦葺の切妻屋根に銅板の深い庇と軒を取り回した外観。南側に躙口が、西側に貴人口が開けられ、躙口の横の下地窓は花頭窓が開けられています。軒下の扁額は先代のドンだった益田鈍翁の手によるもの。
小間の内部は四畳半台目隅板の炉は台目切で、勝手側に色紙窓が開き下座床が付く構成。床横の給仕口は山中の席ということか大きくカーブした曲木を使った山型で、花頭窓同様にユニークな意匠。
この間取りは高台寺にあった小堀遠州好みの茶室と同じで、同じ昭和初期に建造された山口玄洞寄進の大徳寺興臨院涵虚亭や同時期建造の橋本関雪による白沙村荘の憩寂庵と酷似しています。床横の隅板が無い状態の四畳半台目の席として古田織部好みの奈良八窓庵があるのですが、給仕口と床が近い為に半東(給仕者)が床を隠してしまい、この隅板一枚入れることによって給仕の際に使い勝手が良くなるので、近代数寄者によく採用されたようです。
広間は瓦葺の切妻屋根に深い土庇が取り付く外観で、濡縁と貴人口が開けられています。ここでも山中の席と言うことか、貴人口上の欄間は明恵上人が修行した愛宕山の型に刳り抜かれています。
内部は八畳間に合の間が一畳付く間取りで、北東隅に床と棚や地袋が矩折りに取り付く構成。当初は石水院を広間と見立ててその横に小間だけ造る予定だったのが、石水院が国宝の為に許可が下りず、小間の建設中にこの広間が追加されたそうです。箒庵は鈍翁と共に大師会の中心メンバーだったので、当時よく開催された大茶会にはこのような広間が必要だったのでしょうし。
京都の大学の茶道部の部員達がよくこの茶室で合宿を行うそうで、この隣に法鼓台道場という合宿所があり、文字通り山籠りをするとか。
狭いながらも露地があり、燈籠や蹲踞も置かれています。この庭園を設計したのは植治の別名で知られる七代目小川治兵衛で、地元栂尾産のゴツゴツした頁岩(けつがん)を積んで独特の景色を造り出しており、尾根道といい水の魔術師と呼ばれた植治の作品としては少々異色の作品。京都市指定名勝。