豊国神社唐門 (ほうこくじんじゃからもん) 国宝
三十三間堂の北側一帯、つまり京博(京都国立博物館)周辺はかつて方広寺の大仏殿があった場所で、江戸中期の寛政期に落雷により焼失するまでは日本最大の建造物として周囲を睥睨していました。今でも巨岩を積んだ石垣が残されており、東大寺の大仏殿を復興した際にも、この方広寺の大仏殿を模写して建造されています。この大仏殿を建立したのが豊臣秀吉で、権力の頂点に座した頃にこのような巨大建造物を造営して威厳を誇示したわけですが、秀吉の死後もこの大仏殿を見下ろす東山の阿弥陀ヶ峰中腹に墓所(豊国廟)が造られ、さらに山麓に秀吉を祀った豊国神社を建立するなど、この一帯はまさしく豊臣エリアといった様相。その後方広寺の鐘に家康がいちゃもんつけて豊臣家は滅亡し、豊臣物件は悉く破却か荒廃していき、見るも無残の有様を幕末まで晒していたようですが、何故か明治天皇は秀吉が大好きだったようで、1868年(明治元年)に破却していた豊国神社を方広寺の大仏殿跡地に再興させ、その際に秀吉の居城だった伏見城の遺構と伝えられる唐門を拝殿前に移築しました。大規模かつ壮麗な門で、国宝に指定されています。
当地へ移築される前は南禅寺の金地院にあり、さらにその前には二条城にあったようで、いわゆる徳川家の持ち物だったようですが、徳川幕府崩壊後に明治天皇の肝いりにより再び豊臣家に帰還されたというわけです。伏見城破却の際に天守と共に二条城に移築されていたようで、伏見城の城門の一つだった模様。外観は屋根が前後に唐破風造り、側面に入母屋造りのどっしりとした重厚な檜皮葺の四脚門で、分厚い太い柱や梁に鍍金の飾金具を打った、煌びやかな建物です。
この門の最大の特徴は装飾の壮麗さにあるのですが、特に随所に凝った彫刻を施しており、正背面の虹梁上の蟇股に桐紋を入れ、冠木上に雌雄一対の大鶴を彫り込んだ、桃山期らしいダイナミックで絵画的な彫刻が見られます。
門扉にも鯉の滝登りの浮き彫りが施されており、ここも躍動感溢れる桃山期ならではの意匠。華麗な木鼻も含めて、往時の雰囲気を今に伝える、雄大豪壮な豪華絢爛たる建造物です。
「豊国神社」
〒605-0933 京都府京都市東山区大和大路通正面茶屋町530
電話番号 075-561-3802
境内自由