白雲洞 (はくうんどう) 登録有形文化財



 今では観光地化されてホテルや旅館が林立する俗化した箱根の強羅ですが、その昔は華族や財閥当主等のアッパークラス向けに開発された静かな別荘地でした。三井財閥の大番頭だった益田孝が明治後期に欧州外遊した際に、スイスのアルプス登山鉄道をいたく気に入り、小田急電鉄に要請して箱根に登山鉄道を敷設させ、ここに一大リゾート地を目論んだのがその始まりで、その終点である強羅にはフランス式庭園を中心とした欧風の整然とした区割りによる別荘地を造成したのがその経緯。この一帯には閑院宮の豪華な別邸や、三井・三菱の財閥の別荘に、フランク・L・ライト設計による資生堂創業者の瀟洒な洋館(関東大震災で崩壊)もありましたが、戦後は皇籍離脱や財閥解体の憂き目に会って大半が手放され、今は企業の保養所や旅館に変貌しています。その強羅の中心であり象徴的な場所でもある強羅公園内に、益田孝の別荘だった茶室が造られており、呈茶付きで内部公開されています。

 

 この別荘は元々公園とは別のもので、公園が開園された1914年(大正3年)に公園に隣接して造られたものであり、強羅開発の功績によりこの土地を小田急から提供されて創設されました。益田孝は”鈍翁”の名でも知られる茶人で、ここでも他の別荘に見られる洋館や贅を凝らした数寄屋建築は造らず、簡素な茶室を構えて茶三昧に耽っていたようです。その後茶仲間だった原三渓に譲られ、さらに松永耳庵へと相次いで近代数寄者の代表的な人物の所有となりましたが、戦後はやはり他の別荘同様に手放され一時は料亭にもなっていたようですが荒廃し、1980年代になって茶室研究で知られる中村昌生氏による復元事業が行われ、今は強羅公園の付属施設となっています。

 

 強羅はその名の由来となったように巨岩がゴロゴロした土地柄で、茶褐色の火山性堆積物に樹木や苔が絡み合う独特の景観。この茶室のある園地も御多分に漏れず巨岩がピラミッドのように積み重なっており、平坦な場所が殆ど無い傾斜地です。鈍翁はそんな茶室に不適と思えるような特殊な地形に、大胆かつ柔軟な発想で他に類を見ないユニークな茶室を設計しており、様式化し洗練され過ぎてしまった三千家や藪内家・小堀家といった茶道流派の家元とは異なる、作者のパーソナリティが強く感じられる茶室です。苑内には茶室が3棟ばかり造られていますが、それぞれその地形に合わせて絶妙に配されており、またその意匠も個性的でタイプの異なるもので、比較対照してみるのも楽しいです。その茶室群の中央にあり中心になるのが「白雲洞」で、外観は茅葺の民家風。

 

 それもそのはず強羅近くの宮城野集落にあった古民家を移築し改造したもので、茶室というよりは峠の茶店でうっかり八兵衛が団子でも喰らっているような雰囲気。部材は複数の古民家から採集されており、良いものだけを選んでパズルの様に巧みに組み合わせているので、改造というよりは古材の再利用というほうが妥当かもしれません。周囲はまさしく山中の眺めなので、このような田舎家風の佇まいは調和がとれて美しく、この茶室の完成以降は古民家の移築改造した茶室が増えてゆきます。(山口玄洞の遊雲居や松永耳庵の黄林閣)

 

  

 内部は7畳の主室に4畳の次の間、1畳の仏間に2畳の水屋による平面構成で、南面・西面を障子戸としたフルオープンの開放的な造りです。畳は縁無しの坊主畳で、床の間は無く囲炉裏が切られた茶室としては余りにも異色な意匠。あくまでも田舎家風の趣を生かしたものなのでしょうが、土壁の白い腰貼りや天井の竹垂木による化粧屋根裏に数寄屋の意匠が見られるので、茶室としての枠組みからは外れていません。天井に渡してある曲がりくねった自然木による豪壮な梁組みにも、既成概念に囚われない自由闊達な鈍翁の創造性がよく出ています。

 

 

 この白雲洞の少し手前に一段下がって寄付があります。屋根が柿葺で内部は4畳半に石炉のシンプルな構成ですが、東南隅の木が邪魔な為に斜めにカットされています。わざわざこんな場所に寄付を作らなくともと思うのですが、実はこの隣に別の施設があるので、その為の準備室にも使われたのかも知れません。

 

 その施設とは温泉で、「白鹿湯」と名付けられた巨岩で組んだ石風呂です。山荘として寛いだ場所でもあるので、到着したらまずここで汗を流して、身形を整えて茶を嗜んでいたのかも。隣の寄付は脱衣所兼荷物置き場でしょうか?

 

 白雲洞からさらに一段上がり奥へ進むと今度は「不染庵」という茶室が現れます。白雲洞同様に茅葺屋根の民家風の外観ですが、こちらは古民家を使わず丸太材で組んだ数寄屋風建築で、内部も2畳台目の小間と4畳の寄付による比較的まともな構成。白雲洞は煎茶用の茶室で、この不染庵が本席だった説もあるので、内部空間の差もそんなところにあるのかもしれません。ただ手前の土庇を支える柱が巨岩にそのまま乗っている点は、やはり異色な茶室です。

 

  

 ここまでが鈍翁が手掛けた箇所で、1922年(大正11年)に盟友の原三渓に譲られました。三渓は茶室群を大切に保存しながらさらにもう一棟の茶室を増築しており、「対字斎」と命名された茶室が白鹿湯から渡り廊下で繋がります。急斜面に立つ懸崖造りの建物で、当然眺望の良さが特筆もの。正面に明星ヶ岳の”大文字”が見えることが茶室の命名の由来だそうで、内部は三渓らしい品の良い落ち着いた座敷になります。このあたり鈍翁と三渓の個性の違いが良く判ります。この後この茶苑は鈍翁・三渓没後に、これもやはり2人の盟友だった松永耳庵に譲られており、なにかと手を入れる耳庵のことですから色々といじった可能性があるのですが、どこまで耳庵が絡んでいるかは不明。

 

 



 「強羅公園」
   〒250-0408 神奈川県足柄下郡箱根町強羅1300
   電話番号 0460-82-2825
   開園時間 AM9:00〜PM5:00
   休園日 年中無休