護国寺 (ごこくじ)
都の西北大塚一帯は、学校と墓地の多い地域。まあそれだけ土地が開いていたからでしょうが、少し妙な取り合わせではあります。特に雑司が谷霊園と護国寺に豊島ヶ岡御陵と並ぶ南池袋四丁目から大塚五丁目界隈は、その差異が濃厚で、文京区立青柳小学校は周りがお墓。あの音羽幼稚園もこの一角にあります。その音羽幼稚園を経営する護国寺は、五大将軍綱吉が生母桂昌院の為に創建した都内屈指の大寺で、徳川家の加護の下に大規模な諸堂を建造しました。不忍通りに面する仁王門とその奥の石段に立つ不老門と、参道に二つの大きな門を要する規模を誇ります。
本堂は銅版葺き入母屋造りの外観で、直径50cmの欅を52本も並べて組んだ豪壮な建物。江戸中期の建造で国の重要文化財指定。他にも客殿の月光殿(国重文)や多宝塔・大師堂・薬師堂などが点在する広大なスケールです。
この本堂の裏の右手に、あの極真空手総裁、大山倍達氏の墓所があります。大山倍達氏と言えばゴッドハンド・牛殺し・空手バカ一代など幾つもの異名を持ち、今のK1やPRIDEなどの格闘技ブームの源流となった偉大な挌闘家でした。地上最強の挌闘家と言っても過言ではないでしょう。生前の人物を思わせるその黒御影石の重厚な墓石は、死して尚墓参する人に強い威圧感を与え、存在の大きさを改めて知らしめています。
漫画「空手バカ一代」の原作者は大山倍達氏の友人だった梶原一騎氏。この梶原一騎氏の墓所も同じ護国寺にあり、本名の高森朝樹で葬られています。墓碑銘には自筆と思われる『吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けよ』と刻印があり、生前の熱い人柄が目に浮かびます。大山倍達氏・梶原一騎氏ともに、今の時代には見られない骨太でスケールのでかい、存在自体がドラマな凝縮された熱い方々でした。
大山倍達氏の墓所の隣に、雲州の藩主だった松平不昧公の墓所があります。これは不昧公が江戸後期の名茶人と知られていることから、昭和に入って護国寺を茶道の本山とする動きがあり移築したもので、境内には茶室が9席も作られています。
高台にあるので都心にありながらこれだけ広く空が見渡せる場所はなかなかありません。近在のお年寄り達の憩いの場にもなっているようです。