願泉寺 (がんせんじ) 重要文化財
「東洋の魔女」の異名を取った1960年代日本女子バレー代表チームの母体は「二チボー貝塚」(現ユニチカ)の監督と選手達。そのホームグラウンドだった貝塚市は紡績で栄えた港湾都市で、女工哀史もあったりする近代化遺産豊富な町でもあるのですが、近世までは紀州街道の宿場町として、それ以上に泉州地域最大の寺内町として発展した場所でもありました。真宗寺院を中核に細い路地が入り巡らされ、周囲を環濠が取り巻いて城塞のように防御を固めたその街並みは、江戸期でも自治的特権を持ったこの町の繁栄ぶりを示しており、今でもその区割りは殆ど変わってはいません。南海本線貝塚駅の北西部一帯がその中世にまで遡る寺内町だった地域で、今でも虫籠窓に格子を並べた古い町家が軒を並べて建ち並んでおり、中々風情のある街並みも残こされています。
その寺内町の中心にあるのが、浄土真宗寺院の願泉寺。室町後期に創建された由来があり、寺内町も同時期に整えられていったようです。ここは色々と特異なエピソードの来歴を持つお寺で、戦国期の天正年間に信長の石山合戦により避難してきた11代顕如上人を迎えて一時的に本願寺本山となっており、その後大坂・京と本願寺が復帰した後に和泉地域の本願寺ということで願泉寺と名付けられた模様。また江戸期の本願寺東西分裂前の本願寺だった由来から、戦前までは東西本願寺両方に属していたのも珍しいパターン。今は西本願寺チームに所属しています。
そのような経緯から本当に格式の高いお寺なのですが、地元では「ぼっかんさん」の愛称で親しまれているようにわりと庶民的で、境内は自由に出入り出来ますし、門前には沢山の幟もはためいて縁日的な光景も広がっていたりします。
今に見る伽藍は江戸初期に整備されており、広い境内に本堂・書院・経蔵などの諸堂が配置され、その周囲を築地塀が囲む構成。ちなみにこの築地塀は国の重要文化財指定。
その築地塀を両脇に従えて正面に聳え立つのが表門。本瓦葺による切妻造りの屋根を持つ堂々とした四脚門で、1679年(延宝7年)に建造されています。国重要文化財指定。
近世の庶民信仰に因む施設は装飾性に富む傾向があり、この門も御多分に洩れず龍の彫刻が飛び交っています。虹梁上にも獅子・麒麟・飛龍・海馬の彫刻が施されており、その虹梁も大瓶束の龍が咥え込んでいます。
この門の奥に本堂があるのですが、その本堂の前に表通りから丸見え出来ないように目隠塀が建てられています。真宗寺院らしく日中は常に開門されているので、このような塀が必要なのでしょう。当初からあるもので、これも国の重要文化財指定。
本堂は1663年(寛文3年)に建造された規模の大きな本瓦葺入母屋屋根の仏堂で、桁行27.8m奥行27.0mの広さに向拝1間を正面に付けた平面構成。屋根の勾配が比較的緩く、高欄の付いた広い外縁に蔀戸の嵌った障子戸が並ぶ外観は、西本願寺の本堂(阿弥陀堂)・御影堂と同じスタイルで、少しスモールダウンした姿です。国重要文化財指定。
この本堂も表門同様に装飾が豊かな建物で、向拝手挟や欄間に天人・亀・鳥・馬などの彫刻がこれでもかと過剰なまでに施されており、軒下の蟇股にも同様に多彩な図案の彫刻が並びます。一つとして同じ図案はありません。
内部も真宗寺院らしい畳敷きの広い外陣と、金箔や極彩色で華麗に装飾された内陣で構成されており、やはり欄間に金色の透かし彫りが入っています。2011年に完了した修復事業により往時の壮麗な彩色が復元されており、外観においても板戸絵や破風板・鬼瓦が綺麗に復元されています。
境内には他に国重文指定の鐘楼(1700年)・太鼓堂(1719年)、市指定文化財の書院・経蔵・井戸屋形が建ち並びます。元からあった鐘楼は空襲で焼失したそうで、同市内の青松寺(廃寺)のものを移築しています。